その昔は、災害や事件は、罪に対する神様からの罰と考えられていました。まずこのイエス様の言葉は、災いに会うことは、その人の特定の罪深さを示すものではないと教えられました。
そして、さらに災害にあったのは、神様の起こした事故の被害者だという感覚からも、新たな視点で教えられました。不幸に会った人は罪がない、とは教えられず、反対に、不幸に会わない人も同じように罪深いと教えられたのです。「あなたがたも悔い改めなければ同じように滅びる」と。悔い改めについて深く考える話す機会と捉えるのが良いのでしょうか。
災害や事件や事故、起こるたびに最小限にしたかったという思いは、昔も今も同じ。事件はローマ帝国から派遣されたユダヤ総督ピラトが礼拝中のガリラヤ人を打ち殺したこと。事故はシロアムの塔が倒壊して18名の死亡事故。
犠牲者とされる人たちは、何の犠牲になったのかと話題となった。
ぶどうの木もいちじくの木も「神の民」を象徴する木として伝えられている。1本に絞れなかったのが奥ゆかしい。