メタノイア(悔い改め 洗礼)はアイノタメ(回文)
その昔は、災害や事件は、罪に対する神様からの罰と考えられていました。まずこのイエス様の言葉は、災いに会うことは、その人の特定の罪深さを示すものではないと教えられました。
そして、さらに災害にあったのは、神様の起こした事故の被害者だという感覚からも、新たな視点で教えられました。不幸に会った人は罪がない、とは教えられず、反対に、不幸に会わない人も同じように罪深いと教えられたのです。「あなたがたも悔い改めなければ同じように滅びる」と。悔い改めについて深く考える話す機会と捉えるのが良いのでしょうか。
災害や事件や事故、起こるたびに最小限にしたかったという思いは、昔も今も同じ。事件はローマ帝国から派遣されたユダヤ総督ピラトが礼拝中のガリラヤ人を打ち殺したこと。事故はシロアムの塔が倒壊して18名の死亡事故。
犠牲者とされる人たちは、何の犠牲になったのかと話題となった。
ぶどうの木もいちじくの木も「神の民」を象徴する木として伝えられている。1本に絞れなかったのが奥ゆかしい。
私たちの取り巻く社会では、事件、事故、災害があり、私たちの身近においても、事件、事故、災害があるでしょう。泣いたり、怒ったり、壊したり、許せなかったり、良かれと思ったことも、ちゃんとやろうとしたことも、あわてちゃったりして、思わぬことになってしまったりする。
こうしたことを、自分のせいだと考える時もあるだろうし、あいつのせいだと強く思ったりするでしょう。それが大きくなると、あれはばちが当たったのだと言って、人々をあおるばかり。
イエス様が、この世界に、事件や事故があることは、現実として受け止めつつ、その現実から悔い改めることを教えられました。悔い改めとは、向きを変えるという意味があり、自分や誰かを追い詰めないで、神様の方に向く、ことに私たちはイエス様の方を向くという機会とするように教えられました。
イエス様の方を向くということで、私たちは、愛の心を思い出させます。愛の心を思い出されれば、私たちは、寄り添うという心も生まれてきます。突き放すことや裁くことだけで問題解決をするのではなく、寄り添いながら、時には、あなたと私、あなたはあなた、私は私からもさらに進んで、あなたは私、私はあなたとお互いに神様に創られたものとして、共に神様の方を向き、神様の望まれる実を結ぶように望まれているのです。
そのように考えると、悔い改めの話からこのぶどう園にあるいちじくの木がたとえ話につなげたのは、実を結ぶのに4年はかかることを、イエス様ご自身も覚悟しておられることが現れています。そして、その世話もイエス様ご自身がなさってくださっているのです。私たちも「悔い改め(メタノイア)は愛の為」と実を結んで参りましょう。
(執筆: 朝比奈晴朗牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
事件や事故、身近にある腹の立つこと、許せないこと、与えられた信仰の面から考えていくと、違った解決方法と違った言葉や態度が出てくるかも知れません。キリスト教信仰に生きるとはという切っ掛けになればと思います。