1-9節にも素晴らしい言葉がちりばめられています。ここの部分はカッコに入っているので今回は読まなかった場合でも、10-18節にもまた慰めと希望に満ちた言葉があります。12節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」や、16節「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」もその一つでしょう。イエス様は人々に十字架につけられて殺されても「神様に愛されている子ども」という神様の救い・恵みの中で生き抜かれました。私たちも生きていればいろいろな大変なことやつらいことがあるけれども、イエス様と共に「神様に愛されている子ども」として生きてゆけることについて、思い巡らしてみてほしいと思います。ここが、神さまの救いの中を生きる鍵、一生を照らす光になりますので。
十字架に捨てられることと神さまに愛されていることは、容易には結び付けて考えることの困難さがあります。我(が・エゴ)では理解できず、聖霊によって知る以外ないという聖書のテーマがあります。神様に愛されているのなら、どうしてそんなひどい目に合わなければならないのだろう、本当は愛されてはいないのではないか、だからあんなことがあったのだ、と考えることがあるでしょう。しかし聖書は、どんなことがあったとしても、失われない神様との結びつきを語り、そこにイエス・キリストは生き、私たちにも現わされたのです。ここに、何があっても生きられる道があると思いますので。この事については、星野富弘さんのお証しにも実例を見い出せるのではないかと思います。