2025年1月5日 降誕節第2主日
ヨハ1:(1〜9),10〜18 エレ31:7〜14 エフェ1:3〜14

今週の聖句

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
ヨハネによる福音書1章14節

ねらい

神様が共にいてくださること示してくださった救い主を覚える

説教作成のヒント

この宇宙、この世界にあらゆる命が存在するのは愛によって創造される神様のお働きによります。新年最初の礼拝で、「初めに言があった」から始まる聖書箇所を読み、存在の原点を覚えてこの1年を過ごしてゆけるのだと思います。一人ひとりは神様の愛を受けて生まれてきました。この愛なる神様のお働きは目には見えません。見えないけれども、日々絶えずそのお働きを受けて私たちは生きているのです。お働きを受けている私たちということは、神様と一つの存在としてここにいるということ。この恵みと真理が全被造物、すべての人に共通な命の根っこです。同じ根っこに支えられて伸びている一人ひとりは、同時に一つとして同じではない個性をもったかけがえのない存在。

「同じ」同時に「違う」存在。この恵みと真理を示されたのが、神様の口から出る言として来て私たちの生活のただなかに宿られたイエス・キリストです。この方は全被造物が「同じ命の土台」に生かされていることを現されました。目には見えない命の真実に目を注ぐとき、すべての人は神様にあって仲間であり、家族であり、友であることをはっきり知るようになります。そこでこそ、慈しみのまなざしの中にある多様な自他を見い出すでしょう。すべての人の命・生活・人生の根っこをイエス・キリストは現されたのです。ここが重要なポイントです。

豆知識

この1:14は、マタイによる福音書1章23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」を思い出させます。どちらの箇所も、神様が共におられる、そのことを知らせに来てくださった救い主イエス様のお誕生を覚える時にふさわしい聖句。

説教

新しい年を迎えました。少し前の12月には、イエス様が赤ちゃんとしてお生まれになったクリスマスをお祝いしました。みんなも赤ちゃんとして生まれましたね。そして、それぞれに年を重ねて大きく成長しています。神様が一緒にいて守っていてくださって背も伸びてきました。そして、こうやって教会に来てくれて、みんなと一緒に神様を礼拝して、さんびかを歌ったりできる幸せをいただいています。

イエス様は神様の言を伝えるために来てくださいました。どういう言葉かっていうと、私たちは一人ひとりみんな「神様の子ども」だよってことです。みんな神様の大切な子どもとして生まれて来て、神様は「あなたのことが大好きだよ」って言っておられるよ、って教えてくれたのです。

そう教えてくれたイエス様の心には、大きくなる間も、大人になっても、安心がありました。イエス様だって、生きている毎日には、嬉しいことばかりではなかったでしょう。暗くなることも、つらい思いをすることも、けんかしてしまうことも、いろんなことがあったでしょう。でも、いつも神様が私のことを大好きで一緒にいてくださる、そして、友達や自然や動物たちを神様は与えて守っていてくれていることを感じて、心の深いところには大安心があったのです。

そういうイエス様がとなりにいると、こっちまで安心できるなあって人々は感じました。イエス様とお別れしなければならなくなった後でも、イエス様のことを思い出すたびに、いろんなことがあるけれど、どんなときにも神様が一緒にいてくれているって、神様が私たち一人ひとりを、みんなを守っていてくださるっていう安心が心の深いところに沸いて来たんです。

みんなもイエス様が伝えてくれたように、やさしい神様に愛されている子どもです。このことを一年の始まりに覚えましょう。新しい年も神様が共にいて豊かに祝福してくださいます。その中を一緒に進んでいきましょうね。

(執筆: 光延博牧師)

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

やってみよう

はなしてみよう

1-9節にも素晴らしい言葉がちりばめられています。ここの部分はカッコに入っているので今回は読まなかった場合でも、10-18節にもまた慰めと希望に満ちた言葉があります。12節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」や、16節「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」もその一つでしょう。イエス様は人々に十字架につけられて殺されても「神様に愛されている子ども」という神様の救い・恵みの中で生き抜かれました。私たちも生きていればいろいろな大変なことやつらいことがあるけれども、イエス様と共に「神様に愛されている子ども」として生きてゆけることについて、思い巡らしてみてほしいと思います。ここが、神さまの救いの中を生きる鍵、一生を照らす光になりますので。

十字架に捨てられることと神さまに愛されていることは、容易には結び付けて考えることの困難さがあります。我(が・エゴ)では理解できず、聖霊によって知る以外ないという聖書のテーマがあります。神様に愛されているのなら、どうしてそんなひどい目に合わなければならないのだろう、本当は愛されてはいないのではないか、だからあんなことがあったのだ、と考えることがあるでしょう。しかし聖書は、どんなことがあったとしても、失われない神様との結びつきを語り、そこにイエス・キリストは生き、私たちにも現わされたのです。ここに、何があっても生きられる道があると思いますので。この事については、星野富弘さんのお証しにも実例を見い出せるのではないかと思います。