「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様が自分に言われていることを覚える
・神様と神様から遣わされた救い主は、怖い方ではなく、やさしいお方。どのようなやさしさか、救いかを考える一つとしてイザヤ42:1~4(傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく、などの言葉)は参考になるでしょう。
・「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」を自分に語りかけられているみことばとして読むことは大切です。イエス様はこのみことばをうけて、このみことばを出会う一人ひとりに伝えて行かれたのですから。この点が深められたら素晴らしいのではないかと思います。
イエス様のご降誕から30年後の洗礼の出来事です。イエス様の神の子としての現れ(顕現)としてこの出来事があり、ここが出発点となって、公の宣教のお働きが始まっていきます。新しい一年の初めの時期に読む相応しさがあります。愛なる神様が私たち一人ひとりを愛して支えのお働きをしてくださる、その中を歩み出すのです。
【15節】・「メシア」(旧約聖書のヘブライ語)は「キリスト」(新約聖書のギリシア語)と同じく「油注がれた者」の意味で、神様が遣わす救い主を意味します。
【16節】・「洗礼を授ける」はギリシア語では「水に沈めること、浸すこと」を意味する言葉です。
・「聖霊と火で洗礼を・・・」の「霊」はギリシア語では「プネウマ」と言います。「風」「息」という意味もあります。「聖霊と火による洗礼」とは本来、「『風』に飛ばされ火で焼かれるもみ殻」のイメージだったようです。洗礼者ヨハネが予想していたメシアは、この「風と火」によって「裁き」をもたらす方だったのでしょう。しかし実際は「救い」をもたらす方でした。
ですから、「聖霊と火による洗礼」とは、「聖霊」(「神様の力」)と「火」(聖霊の力強さの象徴)をもって、「神様と人とを結び合わせる」救いをもたらすことです。「人を聖霊によって神様に結びつけ、神様の子どもとして、神様のいのちにあずからせる」、そういう救いをイエス様はもたらしてくださるお方です。
【21節】・イエス様は人の上に昇ろう・立とうとはせず、人々と同じところに立って洗礼を受けられました。人々の低み、最も深いところから救いを届けて行かれます。家畜小屋でお生まれになられたお姿が重なります。
・「祈っておられると」9章29節にもあるように、祈る救い主のお姿はこの福音書の特徴です。
・「天が開け」神様が救い主を遣わしてくださったことを意味します。
【22節】・「鳩」平和の象徴。神様との間の平和(罪赦されて義とされている)の関係が表されています。そしてこの神様との平和な関係からこの世界に平和を作りだしてゆく力が出てきます。救い主は神様の愛とそのお力を受けてお働きを開始されました。
・主の洗礼の描写はマタイ、マルコ、ルカで微妙に表現が違います。ルカでは、声はマルコ同様に「あなたは」とイエス様ご自身に向かって語りかけますが、聖霊が降ったことについては「目に見える姿でイエスの上に」というような客観的な描写になっています。この描写を通して、イエス様が神の子として人々に現されたという面と、イエス様ご自身が神の子としての使命を自覚したという両面が表されています。
・「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」には、詩編2:7と共にイザヤ42:1節以下に関係があると考えられます。イザヤ42:1~4は救い主であるイエス様のことを理解するのに重要な箇所です。イザヤ書の主の僕の歌の中の「主の僕の召命」と呼ばれる箇所です。イエス様は「神様の僕」として、人間の深いところからお仕えくださいます。
主イエスに語られたみことばは、私たち一人ひとりにも向けられているものとして読むことができます。イエス様は私たちが神様から愛されている子どもであることを宣べ伝えていかれましたから。神様は罪びとである私たちを赦し、つまり「わたしの心に適う者」とされています。ルター先生が「義人にして同時に罪人」と表現したように。罪びとでしかない私たちであるにもかかわらず、神様は恵みのみによって私たちの罪を赦し義とし、守り導いておられます。
ペンテコステの礼拝で読むように、使徒言行録には、弟子たちに聖霊(神様の愛のお力)が降ったことが明記されます。その内容・意味を、神様からのこのお語りかけに重ねて読めると思います。弟子たちの宣教はそこから開始されたのも、主の宣教開始のこの場面を思い起こさせます。その出発点にあったのは、神様が私を・私たちを愛してくださっているというお語りかけです。これが私たちを立ち上がらせます(復活させられます)。自分が神に愛された子であると受け取ることと、神様の子どもとしての使命を生きることがこの場面で示され、現代においてもとても重要なメッセージ性がここに込められているのです。