ここでは主イエスの十字架への深い御心と、その弟子たちの全くの無理解が明らかになる。
主イエスに従ってきた弟子たちは、主イエスが抱いていた受難と復活への深い御心を全く理解せず、かえって自分たちの栄光の姿を夢見ていました。人間は、どのような時でも結局、自身の栄光の姿を描いてしまいます。ここでは弟子たちの無理解が露わにされていますが、そこでの姿は、私たちの日々の姿にも重なるのです。私たちの中にも、自分の栄光の姿を思い描いているところはないでしょうか。私たちにも、主イエスの贖いの十字架を、その深みにおいて理解せず、栄光の姿を追い求めてしまうところがあるかもしれません。
「また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」ここでの「多くの人」という言葉に違和感を持たれる方もいるでしょう。ここでは、救いのために主イエスが贖いの業を果たすとき、「多くの人」とその「残りの他の人」がいるのではありません。主イエスの十字架の贖いの業は、「全ての人々」のためになされたものです。ここを誤解しないようにお願いします。