ここでは主イエスの十字架への深い御心と、その弟子たちの全くの無理解が明らかになる。
主イエスに従ってきた弟子たちは、主イエスが抱いていた受難と復活への深い御心を全く理解せず、かえって自分たちの栄光の姿を夢見ていました。人間は、どのような時でも結局、自身の栄光の姿を描いてしまいます。ここでは弟子たちの無理解が露わにされていますが、そこでの姿は、私たちの日々の姿にも重なるのです。私たちの中にも、自分の栄光の姿を思い描いているところはないでしょうか。私たちにも、主イエスの贖いの十字架を、その深みにおいて理解せず、栄光の姿を追い求めてしまうところがあるかもしれません。
「また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」ここでの「多くの人」という言葉に違和感を持たれる方もいるでしょう。ここでは、救いのために主イエスが贖いの業を果たすとき、「多くの人」とその「残りの他の人」がいるのではありません。主イエスの十字架の贖いの業は、「全ての人々」のためになされたものです。ここを誤解しないようにお願いします。
主イエスは3回、ご自身の死と復活を弟子たちにお話しました。このお話はとても衝撃的で、主は弟子たちと共に、エルサレムを目指して一心に歩んでいました。
しかし、主イエスの真剣な思いとは全く別に、12弟子たちは自分の栄光ばかりを求めていました。今日はそのような背景から起こった出来事です。
主イエスのところに、弟子のヤコブとヨハネが来ました。お願いごとをするためです。「先生、先生が偉くなるとき、私たちを右大臣と左大臣にして下さい」と。この時、すでに主はエルサレムへの歩みを固めていました。そして、ご自身が十字架に架かられることも見通していたのです。
弟子たちは主のそんな真剣な思いをまったく考えずに、自分が偉くなることばかりを考えていました。当然、この時、他の弟子達とのケンカも始まりました。主は、弟子たちが、全く十字架を理解していなかったので、悲しくなったのではないでしょうか。
ここで主は、はっきりと弟子たちに言われました。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
この言葉、まさに主イエスのことを指し示しています。主は、全ての人の王でありました。しかし、全ての人の罪を背負って、一人十字架で亡くなっていくのです。その十字架は、神様のみ心であり、主イエスご自身の深いみ心でありました。主イエスは、十字架の上で命を献げ、人間の罪を赦すこと考えていたのです。主は言葉を続けます。
「人の子は、(中略)自分の命を献げるために来たのである。」主は、全ての人の罪を赦し、その贖いのために十字架に架かられたのです。
今日は、私たちのためにそのとうとい命を献げてくださった主イエスのことを改めて覚えたいと思います。主の十字架によって私たちは罪赦されました。私たちは主の命によって今、生きることを赦されているのです。
(執筆: 筑田仁牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)38番「わたしたちのつみのため」、改訂版125番「イェス、イェス」。
<準備>・目かくし用の布・折り返し地点に目印になる物
<活動>
① 5、6人が1つの列になる
② 1列に並んで、先頭の人がいばって歩き、2番目以降の人は頭を下げて小さくなってついて行く。
③ 折り返し地点になったら、2番目の人に目かくしをして、先頭の人は優しく手を引いてゴールまで連れて行く。3番目の人は先頭の人の肩につかまり、それ以降の人も同様に前の人の肩につかまってゆっくり歩く。
④ ゴールしたら先頭だった人は終わり。一番後ろにつき、次の人が先頭になり、同様にして歩く。列が一巡したら終わり。
イメージ図:2017年3月12日やってみよう
http://tng.jelcs.net/cstext/index.cgi?id=20170312
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罪って何かな。私たちが主イエス・キリストの贖いの十字架で罪赦されていることを知っているかな。私たちは、主の十字架によって、今、神様の御前で元気に生きることを赦されているのです。主の十字架のみ業に感謝したいと思います。