自分の愛する子どもをなくした親の悲しみがここにあります。福音書にはヤイロという会堂長がでてきます。イエス様に敵対している人が多い中、彼は自分の娘の癒しを懇願します。ここに「信仰」をみます。イエス様はその願いを聞かれてヤイロの自宅に向かうのです。ところが途中で娘が死んだという知らせを聞きます。望みが奪われたあと人はそれでもイエスに従うかどうかです。
イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」といわれました。イエス様は娘の命が終わりでないことを知っておられます。さらに神はその娘を立ち上がらせることができるのです。深い苦しみ、悲しみの中にあっても神様を信じることによって希望が耐えられる。必ず立ち上がることができる。「タリタ、クム」というアラム語が残りました。イエス様の言葉には力があります。
アラム語はアッシリア、バビロニア、ペルシアで用いられていた。ギリシア支配時代以降ヘブライ語は聖書その他の宗教文書に用いられ、一般にはアラム語が日常化していった。イエス時代のパレスチナではアラム語が用いられていた。福音書記者はイエスの語られた言葉の中に、ごく少数ではあるがギリシア語と並行してアラム語を保存している。「タリタ・クム」(マルコ5:41)「エッファタ」(同7:34)「アッバ」(同14:36)「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(同15:34)がそれにあたります。