・人の思いはころころと変わりますが、神の意志は変わりません。
・私が神のもとに行く(努力して神に気に入られようとする)のではなく、神が私のもとに来ます。
・人は、神に勝手な期待をします。神は人の期待通りにしてくださるとは限りませんが、人が本当に必要なものを与えてくださいます。それはイエス様が、ご自身を私たちに与えてくださることで実現します。
・エルサレムに入城したイエス様を熱烈に歓迎した人々が、イエス様を十字架につけよと叫ぶ人々に変わってしまいます。
・アイドルの世界では、「反転アンチ」という言葉があります。最初はそのアイドルの熱烈なファンであった人が、何かのきっかけで「期待を裏切られた」と感じ、アンチ(そのアイドルをけなす人)に変わってしまう現象です。イエス様を取り囲む人々も、熱烈なファンから反転アンチになった人のように思えます。
・「荷を負うろばの子」(21:5)とは、原文の意味では「くびきを負うろばの子」という意味です。「くびき」は、二頭以上の家畜が力を合わせるために家畜の首に掛ける横木です。そしてイエス様の十字架も「くびき」です。人は神から、「自分の十字架を背負って」イエス様に従うように求められています。しかし人は、自分の自由を奪うくびきを嫌い、くびきを捨てました。受肉した神として、まことの人間としてやってきたイエス様は、人々が投げ捨てたくびきを拾い、背負います。このくびきを背負うことが、十字架に架けられて死ぬことです。イエス様の十字架によって、神が人とくびき(十字架)でつながります。私たち一人一人が十字架というくびきを負うことで、神と繋がり(神を愛する)、隣人と繋がる(互いに愛し合う)ことが実現します。
・ろばは、荷を負うための家畜です。ろばには、馬のような格好良さは無い、とされていました。
・本日、イエス様は王としてエルサレムに入りました。しかし救い主であるはずの王が、立派な馬ではなく、ろばに乗ってやって来るところに「王なのにろばなの?」という不可解さがあります。
・マタ21:5は、ゼカリヤ書9:9の引用です。今日の場面でこの箇所が引用されている理由は、「旧約聖書において神が『救い主である王はろばの子に乗ってやってくる』と預言されていたことが『イエスによって成就された』」ということです。この場面に居合わせた群衆もゼカリア書9:9を知っていたため、ろばに乗るイエスを見て「この人こそ我々の王、救い主だ」とほめたたえました。
・「荷を負う」(マタ21:5)と訳されている言葉は、原文のギリシア語では「くびきを負う」という意味です。