・主の復活に思いを巡らせましょう。
・復活は、私たちの意志や力で実現するのではなく、神の憐れみと力が働くときに、イエス様がそれを可能にしてくださいます。
・イエス様が殺されたのは、現代の3~4月頃の、金曜日の15時頃です。その数時間後の日没から安息日が始まります。安息日が始まると丸一日何もできなくなるため、イエス様の遺体が十字架にかかったままにならないようにと、イエス様に従う人たちは慌てて遺体を十字架から降ろしました。そして、きれいな亜麻布に遺体を包んで墓に収めました。イエス様は鞭打たれ、十字架につけられていたため、体は血だらけでしたが、上記の通り安息日が迫っていたため、埋葬前に体を綺麗にする時間がありませんでした。そこで2日後(金曜日を1日目と数えると3日目)の日曜日の朝、イエス様の遺体を綺麗にするために、女性たちは墓を訪れます。
・「あの方は、ここにはおられない」の「ここ」とは、「イエスの遺体がおさめられた墓」を指します。ここで言われている墓とは、イエス様に従ってきた女性が「悲しむための場所」でした。イエス様が殺されてしまい、これから自分たちがどうして良いか分からず途方にくれている、だけど、せめて今できることとして、イエス様の遺体を綺麗にしようと墓にやって来ます。イエス様の遺体を綺麗にしたところで、イエス様がよみがえるわけでないことは、彼女たち自身が一番分かっています。しかし、そうしなければ気持ちが収まりません。彼女たちにとって、墓とは「出口のない悲しみを悲しむための場所」でした。
・ところが、彼女たちに天使が現れ、「あの方は、ここにはおられない」と言います。出口のない悲しみを悲しむしかない場所には、復活したイエス様はいないと言うのです。人間的な「喪に服す」「悲しみを徹底的に悲しむ」を越えた次元から、イエス様の復活は起こります。女性たちと弟子たちは、「悲しむための場所」から、「○○へ行きなさい」と行くべき場所を天使とイエス様から示されます(28章6節~10節)。
・「復活」の原語(ギリシア語のエゲイロー)には、「立ち上がる」や「起こされる」という意味もあります。
・「復活なさったのだ」(6節)は、原文を直訳すると「復活させられたのだ」です。つまり、イエス様がご自身の力や意志で復活したという意味ではなく、父なる神がイエス様を復活「させた」のです。