父なる神さまと私たち人間との間に立って、この園庭のように、憐れみ深く執り成してくださるイエスさまの姿を心に刻みます。
・イエスさまは2つの事件を取り上げて、「罪深い者が招いた死であるのか?」と人々に問いました。
「ピラトが複数のガリラヤ人を見せしめに殺害した」。「シロアムの塔が倒れて18人が死亡した」。
・いずれも「そうではない」というのが答えで、同じ言葉で3節と5節で繰り返しています。
「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。
・人々は、不幸な死を、人間の罪の結果が招いた死だと受け取りました。しかし、それは死についての正しい理解だと言えるでしょうか。イエスさまは「悔い改め」、すなわち、立ち帰り、方向転換をして神さまのもとへ行くよう呼びかけておられます。どのような死であっても、滅びから救いへと引き上げてくださる、永遠の命を与えることのできる神の恵みのもとで、死を見つめ、捉え直す必要があります。十字架の愛によって死を受け取る時に、不慮の死も、かけがえのない命であり、神さまのみ腕に抱かれ、永遠の命として保たれていることを覚えます。
・「悔い改めなければ」とは、「反省して正しい行いをしなければ」と言っているのではありません。神さまのみ許へ立ち帰り、「生き方の方向転換をしなければ」と言っているのです。
・イエスさまに世話をされたイチジクの木は、やがて、霊(命)の実を結びます。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22)。
・イチジクの木
聖書の中で最初に出てくる実在の果物は、イチジクです。アダムは自分たちが裸であることを知ると、イチジクの葉をつづり合わせて、腰を覆いました(創世記3:7)。しかし、神の言葉に背いて、罪を犯したアダムに対して、神さまは皮の衣を着せ、肉体(人間)の弱さを保護し、守ってくださいました。この庭師と同じように、命を慈しみ、み手を伸ばし、アダムの世話をされた神さまのお姿があります。