☆失ったものを見つけた父なる神さまの喜び。
父の家を飛び出し、勝手気ままに生きて身を持ち崩した放蕩息子に対して、父親は喜び迎えて、息子の身分を回復しました。兄は公平ではないと父親に抗議をするのですが、更に、寛大な父の心が示されます。憐れみ深い父なる神さまの姿、慈愛のまなざしを心に刻みます。
・登場人物から、いろいろな気持ちを考えてみよう。
父=神さま、放蕩息子=罪人、徴税人(私たち人間)、まじめな兄=ファリサイ派の人々、律法学者(私たち人間)。
人間には喜怒哀楽があり、どのような時にどのような気持ちになるのか、気持ちを言葉にしてみよう。
・放蕩息子は、財産の生前贈与を申し出ます。それは父の死を意味する関係の断絶でした。
・父は、二人の息子に財産を分け与えました。放蕩息子は、父と家を捨てて、遠い国へと旅立ちました。
・豚の世話。ユダヤ人にとって豚は不浄の動物です。そのため、豚の世話は最も嫌う仕事でした。豚には餌が与えられますが、放蕩息子には食べ物を与える者がなく、家畜以下に落ちぶれた様となっています。
・兄は、弟よりも父の態度に不満を抱いています。不道徳に生きた弟を喜んで迎えたからです。「あなたのあの息子」という表現は、分け隔てる(ファイリサイ的な)態度です。
・父は、いなくなった弟が見つかったことを兄にも喜んでほしかった。一緒に喜ぶこともできたはずです。なぜ、できなかったのか、兄の気持ちについても考えてみましょう。
・失ったものを見つけた喜び。死者の復活、よみがえりの命を喜ぶ神さま。
「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに、生き返った」。
・父は終始、関係の修復に努める態度で、息子たちと対峙しています。父は、この兄に対しても、「子よ」と呼びかけ、「お前の弟」と話しかけているように、神の家族(人格的な交わり)として、この兄にもまなざしを注いでいます。私たち人間はファリサイ的な一面があり、自己中心的な判断で関りを断とうとする性質がありますが、神さまは、常に関係ある存在として、私たち一人一人をご覧になり、その命に責任を持って関わろうとしてくださっているのです。
・指輪(印章、権威の譲渡)、息子の資格の回復。
・履物(自由な行動の許可)
敬虔や恐れから履物を脱ぐ(出エジプト3:5)、悲しみや謙遜から履物を脱ぐ(サムエル記下15:30)。
履物を脱がせ、裸足にすることは、相手に屈辱を与え、貶める行為。(申命記25:9)。
・肥えた子牛は、最上の客をもてなす行為。