・自分や他者を大切にしていこうと思っているのに、つい自分の別の心に流されてしまい、あるいは周りの声などに流されてしまい、大切にしようとしていることができなかった経験がそれぞれにあると思います。後になって後悔することが時折あります。その経験を思いながら、お話ししてもよいかと思います。また、自分の失敗から学んで次に活かせた経験(そのことを神様が導いてくださったのではないでしょうか)から語られれば素晴らしいのではないでしょうか。特に、そのために十字架を背負われたイエス様の生き方を考えてみることは大切です。
・この箇所の前には12弟子の派遣の記事があります。その働きは祝福され、多くの実を結びました。イエス様のお働きの第二段階としての弟子たちの派遣によって、イエス様のことがたくさんの人に知れ渡り、ヘロデ(・アンティパス)王の耳にも届きます。イエス様は洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられて、その後に宣教を開始されました。その先駆者ヨハネが殺されたことが思い起こされているのは、イエス様の名が知られていくにつれて、これからこのヘロデの治世下で、周りから処刑に追いやる力が増幅していくこと、その果てにイエス様が殺されることを予め示すためにここに書かれています。また、ヘロデにとって、うわさを耳にしているイエス様という男は、自分が殺した洗礼者ヨハネがよみがえったと感じて、そのことで沸き起こる恐怖があったでしょう。
そして、20節にはこのようなことが書いてあります。ヘロデは、洗礼者ヨハネのことを「正しい人」と思い、「彼の教えに耳を傾けていた。」しかし、周りの言葉、ヨハネに恨みを抱いているへロディアの考えでヨハネを殺すことになります。このことは、最終的にイエス様を十字架につけたピラトも同様でした。自分の身を守りたい、面目を保ちたい、煩わされたくないという思いがあったでしょう。周りの意見に流される指導者の姿は、私たちの姿にも見られるものだと思います。大切な事を見失う私たち人間は、たやすく周りに流されたり、自分の我、感情に流されてしまいます。
罪は連携して暴力を行わせるという現象がこの箇所にも表れていると思います。現代も、メディア、SNSの中で情報は氾濫し、誹謗中傷など悪しき力を増幅させる側面があると思います。人間を悪に導く力は、私たち人間が抱く不安、恐れがその暴力的な力を大きくするのではないかと思います。自分の存在と行いとは、神様によって受け容れられていることを見ないと、周りに対して自分の価値や正しさを自分で証明しないといけない、よく評価されないといけないと思ってしまったりすることがあると思います。そのことのゆえに、不安や恐れが出て来るのではないでしょうか。イエス様が「恐れるな。恐れることはない。」と言われていることはそういう不安や恐れに囚われて暗さに向かってしまう私たちを、救いに導くために語られた御言葉だと思います。悪の連鎖は、神様からいただく御言葉によって止めていく必要があると思います。
・エリヤは、マラキ書3:23にありますように、メシアが来る前に再来すると言われていた預言者、メシアの先駆者です。マルコ9:13にはイエス様は、洗礼者ヨハネのことを、預言されていたそのエリヤだと言われています。