*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)63番「あさひうけて」、改訂版127番「あさひうけて」。
☆好きな聖句を届けてみよう
〈用意するもの〉
•官製はがき又はハガキくらいの大きさの画用紙等
みんなでどんな聖句があるか出し合う。
聖書の中からでも良いし、今までもらったみことばカードから探しても良い。
◦それぞれ自分が選んだ聖句をハガキや画用紙に書いて、色を塗ったり絵を描いたりする。
◦宛名を書いて一緒にポストに投函したり、持ち帰って大切な人に送ったり渡したりする。
☆神様に遣わされた一人として、たくさんの人に神様の愛や言葉を伝えて歩んでいくことができるようお祈りしよう。
・故郷の人たちがイエス様を小さい頃から知っていて、特別なことのない普通の人としてイエス様のことを見ていたことがあるでしょうが、それだけが、イエス様のお証し、語って行かれた内容(神様の福音)が分からない理由かどうかも考えてみてください。イエス様は「神様の智慧」を大切に生きられたと思います。我(が)、自己中心に歩んでいる私たち人間は、神様の智慧を生きられたイエスを理解できない側面を持っていると思います。聖書には、神様の智慧の反対語として「人間の知恵」という言い方がされる場合があります。第一コリント1:8では、イエス様が証しされて行かれた神様の智慧を、人々が認識できていれば、イエス様を十字架につけて殺すことなどしなかったでしょう、と言われています。この2つの知恵のことを少し考えてみてください。一つだけ言えば、神様の智慧には、すべての人への御言葉「あなたは極めてよい」という内容がありますが、人間の競争や比較社会の中で、人間の価値観としての「人の知恵」では、価値があると見られる人と、価値がないと見られてしまう人に、私たち人間は分けて考えることがあると思います。
・「故郷(こきょう ふるさと)」の素晴らしさについて話してみよう。心のふるさと、心の原点を分かち合ってみたらいかがでしょう。また、故郷を歌う歌を探してみよう。私たちの真の故郷はどこ・だれでしょう。
・弟子たちは身軽にして遣わされます。生きるうえで、何が大事でしょう。別の箇所では「必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:24)ともイエス様は言われます。生きて行くのにはいろいろなことが必要ですが、あえて「この一つ」というものがあれば、あなたにとってそれは何でしょう。また、聖書は、そのことについてどんなことを言っているのでしょう。あれもこれもたくさん必要なこととして持つとしんどくなる、縛られるものになる場合があるかもしれません。
・神様が私をどういうふうに遣わされるでしょうか(生活の中で。将来、たとえば職業などを通して)。私に与えられている神様からの賜物はどう活かせるでしょう。
・「汚れた霊」とは、現代的意味でどういうものでしょうか。「汚れた霊」を言い換えれば、人間とは神様に創造された素晴らしい存在であるという真実を汚す、おとしめる、滅ぼすことに導く悪しき力と考えてみてはどうでしょう。そういう力は私にどう働いてくるでしょうか。この世界にどのように働いているでしょうか。そのことについて考えてみることは大事な視点だと思います。では、それに打ち勝っている(打ち勝つ)神様の御言葉とはどういうものでしょうか。
・「足の裏の埃を払い落しなさい」という表現で聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。私が遣わされ福音を伝える(また、「福音」とは何か、をもう一度確かめてください。)のですが、本当の宣教の主体は神様であり、神様が宣教しておられる中で、遣わされた私たちがいます。私は限界づけられた存在、限界を持っている者です。なんでもできるわけではありません。あとは神様にお委ねします。私が遣わされて御言葉を語ったその方を、神様が導いてくださっています。この御言葉は、冷たい言葉にも聞こえますが、私の分をわきまえて、できることをできるだけさせていただけばいいのではないでしょうか。そのことにも思いを巡らしてみましょう。
・「悔い改め」させる、の元々の意味は「神様のほうへ向き直らせる」というように「方向転換」の意味です。放蕩息子が父親のもとに帰るようにです。自分の罪を振り返って反省・後悔・懺悔するという意味以上にそうでしょう。このことも話してみましょう。
・「悪霊を追い出し」「いやした」と書かれています。「神様の福音」は、私たちを本来の神様との関係(親子)に戻し、そのことによって、私たちの存在の深いところにどのようにいやしをもたらすでしょうか。聖書は「救い」と「いやし」を使い分けていることもありますので、そのことも考えてみましょう。たとえば、病気が治らなかったとしても、「私は神様に愛されている。救われている。神様が共にいてくださる」と感じて生きられた方々の実例はあるでしょうか。星野富弘さんなど。