2021年7月4日 聖霊降臨後第6主日
マコ6:1~13 エゼ2:1~5 2コリ12:2~10

今週の聖句

「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」
マルコによる福音書6章12節

ねらい

神様に遣わされて福音を共有する。

説教作成のヒント

・神様の価値観(神様の無条件の愛にある人間同士)に生きられたイエス様の弟子として歩むために、また、その福音を共有するためにお話しする。

・弟子たちは、何も持たない中で、自分を支えているのは神様であることへ思いを向けやすくなるようにイエス様から指導されました。物であろうと、考えであろうと、この世の事柄の所有はいつか無くなります。限られた命の中で、現実に私を産み出し、身体を生かしめ、各臓器を動かしている神様、その力、その働きが、私の意識を超えて実際に働いている事実があります。その私と他者の、皆に共通のその生かされているいのちであるという根源における対話を、イエス様は「野の花、空の鳥」を眺めながら宣教されて行かれました。

そして、人はひとりでは生きられないように、他者と生きていくことのできる祝福を共有できるように人間は創造されています。その真実に基づいている宣教は、神様の創造の意図である神の愛の表現方法です。弟子たちは遣わされました。神様のご愛を共有する出会いによって、聴いた者は自分を生かしめている力へと目を向けさせられます。その時にすぐには悟れなくとも、神様の時が来た時にそれを悟り、そのことによって元気が与えられます。ですから、宣教者は、できることで伝えさせていただくだけです。

豆知識

故郷:ナザレは自然豊かな所。※ユダヤ教は岩がごつごつした砂漠が多い地で形成されたとも言われます。

安息日:金曜日の日没から土曜日の日没まで。会堂で礼拝の時が持たれました。

会堂(シナゴーグ):紀元前6世紀初頭にバビロニア帝国によって神殿が破壊され、そこでの礼拝ができなくなりました。捕囚の地で、また離散した地で、ユダヤ人たちが「自分たちは神様を礼拝して生きる民である」という自覚・アイデンティティーへと立ち帰るために、集まって礼拝する場としたのが会堂の始まりと言われています。そこでは、聖書(旧約聖書)が読まれ、その解説を聞き、お祈りをしました。結婚式や葬儀、裁判なども行われ、社会生活、宗教生活について話し合ったり、子どもたちの教育の場でもありました。

説教

みんなはどんなお花が好きでしょうか。たんぽぽやすみれもきれいですね。イエス様は小さい頃から、お花に囲まれて、鳥さんたちが飛んでいる、自然豊かなところで育たれました。いろんな所を旅してこられた後、自分のふるさとに、愛する弟子たちと一緒に帰って来られたイエス様はとても嬉しかったことでしょう。イエス様はいつものように「神様は私たちを大切に思ってくださっていますよ。いろんなことはあるけれど、神様がちゃんと守ってくださっていますよ。」と教えてくださいました。礼拝堂でも教えてくださいました。でもみんなは「素晴らしい聖書のお話しだ。どこで学んだんだろう。でもなあ、このイエスは小さい時から知ってるよ。」と思いました。その時にはイエス様が言いたかったことは伝わらなかったようです。

その後、イエス様の教えである神様の喜び(福音)を伝えるように、お弟子さんたちを二人ずつ遣わされました。出会う人を本当に励ます神様のお力をお弟子さんたちに与えられました。「履物は履いて、杖一本だけ持って行くように、パンも、袋も、金も、二枚の下着さえいらない。」と言われました。神様がどんなときにも守ってくださるので、大丈夫だからです。そして、お家を訪ねて行き、受け入れてくれたらゆっくりとその人を元気づける福音のお話をするようにと言われました。受け入れてくれない時には、くよくよ考え込まずに、足に付いている埃を落として、あとは神様にお任せするように教えてくださいました。

神様は人を遣わされる方法で「神様の愛(の福音)」を伝えられます。神様が愛しておられる人間どうしが、「私」を「あなた」を生かしておられる父なる神様のご愛を呼びかけ合って、生きてている喜び、また出会えた喜びを分かち合って、一緒に生きて行くことを、とても嬉しく思われます。もちろん、そのことを共有できない時もあります。それでも、神様が、愛のもとで一緒に生きていってほしいと願われているから、私たちはそこに一緒に歩んでいきたいと思うのです。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

旧版(1987年版)63番「あさひうけて」、改訂版127番「あさひうけて」。

やってみよう

☆好きな聖句を届けてみよう

〈用意するもの〉

•官製はがき又はハガキくらいの大きさの画用紙等

みんなでどんな聖句があるか出し合う。

聖書の中からでも良いし、今までもらったみことばカードから探しても良い。

◦それぞれ自分が選んだ聖句をハガキや画用紙に書いて、色を塗ったり絵を描いたりする。

◦宛名を書いて一緒にポストに投函したり、持ち帰って大切な人に送ったり渡したりする。

☆神様に遣わされた一人として、たくさんの人に神様の愛や言葉を伝えて歩んでいくことができるようお祈りしよう。

はなしてみよう

・故郷の人たちがイエス様を小さい頃から知っていて、特別なことのない普通の人としてイエス様のことを見ていたことがあるでしょうが、それだけが、イエス様のお証し、語って行かれた内容(神様の福音)が分からない理由かどうかも考えてみてください。イエス様は「神様の智慧」を大切に生きられたと思います。我(が)、自己中心に歩んでいる私たち人間は、神様の智慧を生きられたイエスを理解できない側面を持っていると思います。聖書には、神様の智慧の反対語として「人間の知恵」という言い方がされる場合があります。第一コリント1:8では、イエス様が証しされて行かれた神様の智慧を、人々が認識できていれば、イエス様を十字架につけて殺すことなどしなかったでしょう、と言われています。この2つの知恵のことを少し考えてみてください。一つだけ言えば、神様の智慧には、すべての人への御言葉「あなたは極めてよい」という内容がありますが、人間の競争や比較社会の中で、人間の価値観としての「人の知恵」では、価値があると見られる人と、価値がないと見られてしまう人に、私たち人間は分けて考えることがあると思います。

・「故郷(こきょう ふるさと)」の素晴らしさについて話してみよう。心のふるさと、心の原点を分かち合ってみたらいかがでしょう。また、故郷を歌う歌を探してみよう。私たちの真の故郷はどこ・だれでしょう。

・弟子たちは身軽にして遣わされます。生きるうえで、何が大事でしょう。別の箇所では「必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:24)ともイエス様は言われます。生きて行くのにはいろいろなことが必要ですが、あえて「この一つ」というものがあれば、あなたにとってそれは何でしょう。また、聖書は、そのことについてどんなことを言っているのでしょう。あれもこれもたくさん必要なこととして持つとしんどくなる、縛られるものになる場合があるかもしれません。

・神様が私をどういうふうに遣わされるでしょうか(生活の中で。将来、たとえば職業などを通して)。私に与えられている神様からの賜物はどう活かせるでしょう。

・「汚れた霊」とは、現代的意味でどういうものでしょうか。「汚れた霊」を言い換えれば、人間とは神様に創造された素晴らしい存在であるという真実を汚す、おとしめる、滅ぼすことに導く悪しき力と考えてみてはどうでしょう。そういう力は私にどう働いてくるでしょうか。この世界にどのように働いているでしょうか。そのことについて考えてみることは大事な視点だと思います。では、それに打ち勝っている(打ち勝つ)神様の御言葉とはどういうものでしょうか。

・「足の裏の埃を払い落しなさい」という表現で聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。私が遣わされ福音を伝える(また、「福音」とは何か、をもう一度確かめてください。)のですが、本当の宣教の主体は神様であり、神様が宣教しておられる中で、遣わされた私たちがいます。私は限界づけられた存在、限界を持っている者です。なんでもできるわけではありません。あとは神様にお委ねします。私が遣わされて御言葉を語ったその方を、神様が導いてくださっています。この御言葉は、冷たい言葉にも聞こえますが、私の分をわきまえて、できることをできるだけさせていただけばいいのではないでしょうか。そのことにも思いを巡らしてみましょう。

・「悔い改め」させる、の元々の意味は「神様のほうへ向き直らせる」というように「方向転換」の意味です。放蕩息子が父親のもとに帰るようにです。自分の罪を振り返って反省・後悔・懺悔するという意味以上にそうでしょう。このことも話してみましょう。

・「悪霊を追い出し」「いやした」と書かれています。「神様の福音」は、私たちを本来の神様との関係(親子)に戻し、そのことによって、私たちの存在の深いところにどのようにいやしをもたらすでしょうか。聖書は「救い」と「いやし」を使い分けていることもありますので、そのことも考えてみましょう。たとえば、病気が治らなかったとしても、「私は神様に愛されている。救われている。神様が共にいてくださる」と感じて生きられた方々の実例はあるでしょうか。星野富弘さんなど。