・主イエスが十字架でお示しになった愛と赦し、ここに私たちの歩むべき道があります。
・主イエスの与えた「新しい掟」とは、どこが新しいのでしょうか? 旧約では「自分自身を愛するように」と基準が自分自身に置かれていたのに対して、新しい掟は、主イエスご自身の姿にその根拠が置かれているのです。この言葉は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と続きます。ここに示されているのは十字架の主イエスです。私たちも、他者との関係の中で愛と赦しを経験します。その中にこそ、各自に与えられている小さな十字架が秘められているのです。
・互いに愛し合えと言われても、愛することの出来ない私たちの現実があります。その現実を誰よりも主イエスはご存じでした。従って、無理にクリスチャンぶったり、善人ぶる必要はないのです。あの威勢ばかり良くて、肝心の時には弱くふがいなかったペトロが、殉教を恐れずに宣教をすることが出来たのは、主イエスの愛と赦しを実際に体験したからです。主イエスの愛と赦しを体験したものだけが、それを分かちあうことが出来るのです。
・今日の聖句は十字架のお姿を指し示すものに他なりませんが、その前に主イエスはもう一つのお姿を13章でお示しになりました。それは弟子たちの足を洗う「洗足」です。ここに主がお語りになる「互いに愛し合う」姿が示されています。
・丁度この日は「母の日」にあたります。その関係での展開も良いでしょう。
・「愛」は仏教では一種の煩悩でしかありません。異性への愛、親子の愛、友人への愛、それらは「執着」に他ならないからです。ですから、江戸時代に最初に聖書の言葉を日本語に翻訳する時、「愛」という言葉は使われませんでした。そして聖書の愛を表現するために使われたのが「お大切」という言葉です。これは優れた翻訳だと思います。愛しなさいと言われても、私たちはどうしたって愛せない人が存在します。しかし、どんなに嫌いな人であっても「大切」にすることは出来ます。また「大きく切る」と書くこの言葉は、御自分の命を十字架の上に捧げて下さった主イエスの愛を文字通り表現しています。また、仏教で愛は煩悩としての「執着」ですが、聖書の神さまは私たちが大切で大切でたまらない。一人もその命を失いたくないという神の愛ゆえの執着なのです。この神さまの執着がなければ、私たちとっくに滅んでいたことでしょう。