・主イエスの昇天は「別れ」ではなく「始まり」の時。天に昇られることで主の祝福が全世界の人々へと広がっていく希望と約束の出来事だと言うことを知る。
・英語で卒業式をcommencementと言いますが、ここから始まるという意味の言葉です。ですから、ルカにとって主イエスの昇天の記事は、「終わり」ではなく教会の時が「始まる」プロローグに他ならないのです。十字架上で死に、そしてよみがえられた主イエスは、そのお姿を40日間に亘って弟子たちに示されました。しかし、嬉しい反面、復活の主を見ても信じられないでいる弟子たちの霊的な盲目性が描かれています。45節には、そのような弟子たちのために、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」下さったとあります。私たちも同様です。不安の最中にこそ、心の目を開いて頂くのです。そして聖霊を求めよ、と主は命じておられるのです。この聖霊を与えるために主イエスは昇天されたのです。そして、聖霊に満たされ、心の目が開かれた弟子たちは、復活の主の「証人」となっていったのです。
・『セーラー服と機関銃』という映画の主題歌に「さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うための遠い約束」という歌詞があります。主イエスの昇天は、地上における一時的な別れに他なりませんが、再会の約束が与えられているのです。そして主イエスは弟子たちを祝福しながら天に上られ、祝福の手を私たちのためにまだ上げ続けていて下さいます。この主の祝福に支えられ励まされて、私たちは信仰の旅路を歩む幸いが与えられているのです。
・復活節の最後を飾るのが昇天主日であり、同時に聖霊降臨の出来事への橋渡しとなっています。特にルカは、聖霊行伝とも呼ばれる使徒言行録を福音書の続編として残しています。それは、主イエスの昇天が終わりではなく、聖霊によって新たないのちに生かされ、復活の主の証し人たちが福音を告げ知らせていく始まりとなっていくからです。「マラナ・タ(MARANA・THA)」という言葉は「主よ、来て下さい」という意味ですが、区切りを一文字ずらすと「マラン・アサ(MARAN・ATHA)」、「主は来て下さった」という意味になります。教会の時代を生きている私たちは、まさに既に主が来て下さった時代と主の再臨(終末)を待つ時代の中間を生きているのです。