・恵みを与えてくださるかたに心からの信頼と感謝を寄せましょう。
・パン屑と言うと、価値の無いものと思われがちです。しかし後に記される4000人の空腹を満たした箇所ではパン屑を集めて籠を一杯に満たしています。パン屑であれ恵みに変わりないということです。そしてこの恵みを追い求めたところにイエス様がいてくださり、遠くにいる子どもの癒しが実現したのでした。
・女性の子どもの癒しはイエス様の言葉によってなされたことです。私たちには祈りを聞いてくださるおかたがいるということです。
・イエス様が弟子たちを遣わされたのは「イスラエルの失われた羊」のところでした(マタイ10:6)。本日の日課を読むと、イエス様も同じように「イスラエルの失われた羊」のもとへ遣わされていたのだということが分かります。マタイ福音書はイエス様の十字架の死と復活の後、宣教の範囲を「全ての民」(28:19)としているのは、十字架が全ての人の罪の贖いのためであったからです。しかし当該箇所は十字架の前です。いわば異邦人伝道を先取りする形で、カナンの女性の子どもは癒されるのです。愛はルールや原則を超えて示されること、そして全ての民へと救いが拡大されていくことがもうすぐそこまで来ていることを静かに告げる合図なのです。
・犬とされる言葉は飼い犬を示しています。当時は今のように犬をペットとして飼う文化があったようです。飼い犬には食卓の残り物を餌として与えていました。
・立派と訳される言葉は、大きいという意味です。先週の箇所では「信仰の小さい者」という言葉もありましたが、マタイは信仰を大小という観点で捉えていました。