・希望は、思いがけない方向から来ます。私たちが背を向けていた方向から来るのです。
・み言葉について語り合うことは、落ちこんでいるときの喜びとなります。
・二人の弟子は、一人はクレオパという名前が出ていますが、もう一人の名前は出てきません。彼らは、イエス様が十字架に掛かって死んでしまったことに失望し、エマオへと歩いていました。積極的にどこかへ行こうと思っていたわけでもなく、「イエス様こそ神の子だと思ってついてきたけど、彼は十字架で死んでしまった。これから私はどうしよう」という気持ちだったと思います。
・復活したイエス様は、二人の「後ろから」近づいてきます。二人が向かって行く先ではなく、むしろ背を向けて去って行こうとしているところからイエス様はやってきて、問いかけます
・ユダヤ人で、エマニュエル・レヴィナス(1906年-1995年)という人がいます。この人は第二次世界大戦を経験し、ファリサイ派(新約聖書でイエス様と論争しているファリサイ派です)としての信仰を持っておられ、主にフランスで著述活動を行ないました。第二次世界大戦後、フランスに住むユダヤ人の若者たちの間では「神がいるのであれば、なぜ戦争が起こり、自分たちは迫害されなければならなかったんだ。神を信じていても仕方がない」というムードがただよっていました。レヴィナス自身、ホロコーストで家族を殺され、自分だけが生き残りました。しかしレヴィナスは、このような「神はいないと思える状況」においてこそ、人には神を信じることが大切だと説き、戦後のフランスにおける若者の教育活動に励みました。聖書を読むことは、失望に陥ったときや危機的な状況が起きているときに、死活的に必要だとレヴィナスは説きました。
・今日の聖書箇所で登場する弟子たちもまた、失望に沈んでいるときに、イエス様から語りかけられ、そのやり取りの中で心が燃える体験をしたのです。それは、弟子たちが自力で心を奮い立たせたのではなく、イエス様の方から働きかけてくださったことにより起こったのです。
・食事のときにパンを裂くのは、その食事の主人の役割でした。ここでイエス様は二人に招かれているゲストの立場なので、パンを裂くのは本来二人の弟子のどちらかの役割でした。ところが、パンを裂いているのはイエス様なのです。これは、イエス様がこの場における主(人)であり、復活した主であることを表しています。
・今日の話の流れは、聖餐礼拝の流れと似ています。復活したイエス様が弟子たちのもとに現れ、言葉をかけ、パンを裂いて渡し、それを受け取った人々は他の人々のもとへと派遣される。そして、イエスは復活したと宣べ伝える、という流れです。
・ルカ24章34節の「シモン」は、漁師であった「シモン・ペトロ」です(ルカ5章)。