いのちを殺そうとする力に勝っていく、神の愛の働きを知る。
・マタイ福音書の中で、ヨセフには一言のせりふも与えられていない。しかしヨセフはマリアとお腹のイエスを受け入れ、またイエスが生まれた後は、妻と子をヘロデの手から守ろうと行動する。一見目立たないヨセフの行動を通して、イエスの命は守られていく。
・いのちを奪おうとする大きな力がある。そしてそれに比べると、いのちを守ろうとする働きは、小さなものに思える。しかし一見無力に見える、小さく見える愛の働きを神は助け、その中に働いてくださるのである。
・「主が預言者を通して語られたことが実現するためであった」(15、23)という言葉が繰り返し出てくるが、嬰児虐殺という悲劇について、「これも神の御心であった」と簡単に結論付けるようなことは避けなければならない。たとえイエスは逃れたとしても、ベツレヘムに住んでいたほかの子供たちは犠牲になったのであるし、子を奪われた母親の嘆きは消えない。しかし、そのどうしようもない悲しみのどん底の出来事の中からでも、神は新しいことを起こしてくださる、そこに希望を見出すことは可能だろう。
・聖書にしるされているようなヘロデによる虐殺が、実際に起こったという記録は見つかっていない。しかしヘロデは即位当初はよい為政者であったようだが、自分が正当な王家の人間ではないというコンプレックスから、周囲への猜疑心を募らせ、自分の妻や子供ですら殺害していったという。救い主が現れるという知らせを聞いて、このような凶行に走ったとしても不思議な話ではない。
・このとき殺害された子どもたちを、「最初の殉教者」とみなすこともある。歴史の陰で犠牲になる、小さないのちのことを忘れないようにしたい。