29節には、律法の専門家が、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、イエス様に質問したことが記されています。この質問に答える形で、イエス様は、この「善いサマリア人」のたとえ話を語られたのです。ですから、この箇所のポイントとなるのは、当然のことながら、「わたしの隣人とはだれですか」という問いです。それでは、具体的に聖書の教える「隣人とはだれ」のことなのでしょうか?
私たちが旧約聖書と呼ぶヘブライ語聖書を読む時、レビ記19章(特に33-37節)において、モーセはイスラエルとかかわる敵も含めた、すべての人が隣人であることを明らかにしています。しかし、イエス様に「わたしの隣人とはだれですか」と質問した、律法の専門家には、この「隣人」に対する理解がなかったといえます。律法の専門家にとって、「隣人」とは、同胞イスラエル、つまりユダヤ人に限定される範囲の人でしかなかったのです。
ですから、イエス様は、律法の専門家に、「善いサマリア人」のたとえ話を語られ、ユダヤ人が敵と見なしていたサマリア人の深い憐れみを強調して示されたのです。そして、律法の専門家に、聖書の教える隣人の範囲、そして隣人愛・敵愛の精神を伝えられ、その上で「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37)と命じられたのです。
そればかりか、こう命じられた、イエス様ご自身が、私たち罪人の隣人となってくださったことを忘れてはなりません。イエス様は、私たちの罪のために、十字架で死に、墓に葬られ、三日目に復活し、救いの御業を成し遂げてくださったのです。ですから、恵みにより、信仰によって、義と認められ、神様に受け入れられた私たちは、神様を愛し、隣人とかかわり合いを持つことができるのです。
「律法の専門家」(25)は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の最初の部分モーセ五書を研究する学者で、神様のみが罪を赦すことができると信じていたといわれています。
「永遠の命」(25)について、イエス様の時代には、多くのユダヤ人が、死後の生を信じ、待望していたといわれています。しかし、モーセ五書(律法)に、明確には述べられていないことで、サドカイ派のように「永遠の命」を信じていない人々もいました。イエス様は、ご自身を「主メシア」と信じる、すべての人に「永遠の命」が与えられると宣言しました。
「エルサレムからエリコへ」というのは、海抜約762mの都エルサレムから、海抜約−244mのエリコまで、その距離約26kmの長い降り坂であったことを意味しています。
「祭司」(31)は、モーセの兄アロンの子孫に属する人々で、律法によれば、血に触れて汚れると、神殿での任務に戻るためには、清めの儀式をしなければなりませんでした。
「レビ人」(32)は、神殿で「祭司」たちを補佐していました。そのため、補佐する彼らも同様に、汚れることを恐れていました。
「サマリア人」(33)は、エルサレム北部のサマリア地域の出身者のことで、イエス様の時代には、ユダヤ人とサマリア人とは、お互いに不信感を持ち、交わりを絶っていたといわれています。
「憐れに思い」(33)は、「スプランクニゾマイ」というギリシャ語で、「はらわたが痛む」とか「はらわたを突き動かされる」という意味の言葉で、神様の深い憐れみをあらわしています。新約聖書の中では、イエス様に関連してのみ使われています。このことからも、このたとえ話の中の「サマリア人」が、イエス様ご自身を指していることが分かります。もちろん、肉においてイエス様は、れっきとしたユダヤ人(ユダ族)、ダビデ王家の末裔として生まれて来られましたが、このたとえ話ではご自身をユダヤ人から歓迎されない「サマリア人」として語られたのです。
「油とぶどう酒」とは、イエス様の時代において、薬として用いられていました。特にオリーブ油は、癒しの儀式に用いられてことが分かります(ヤコブ5:14参照)。