2019年7月21日 聖霊降臨後第6主日
ルカ10:25-37 申命記30:1-14 コロサイ1:1-14

今週の聖句

行って、あなたも同じようにしなさい。
ルカによる福音書10章37節

ねらい

29節には、律法の専門家が、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、イエス様に質問したことが記されています。この質問に答える形で、イエス様は、この「善いサマリア人」のたとえ話を語られたのです。ですから、この箇所のポイントとなるのは、当然のことながら、「わたしの隣人とはだれですか」という問いです。それでは、具体的に聖書の教える「隣人とはだれ」のことなのでしょうか?

説教作成のヒント

私たちが旧約聖書と呼ぶヘブライ語聖書を読む時、レビ記19章(特に33-37節)において、モーセはイスラエルとかかわる敵も含めた、すべての人が隣人であることを明らかにしています。しかし、イエス様に「わたしの隣人とはだれですか」と質問した、律法の専門家には、この「隣人」に対する理解がなかったといえます。律法の専門家にとって、「隣人」とは、同胞イスラエル、つまりユダヤ人に限定される範囲の人でしかなかったのです。

ですから、イエス様は、律法の専門家に、「善いサマリア人」のたとえ話を語られ、ユダヤ人が敵と見なしていたサマリア人の深い憐れみを強調して示されたのです。そして、律法の専門家に、聖書の教える隣人の範囲、そして隣人愛・敵愛の精神を伝えられ、その上で「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37)と命じられたのです。

そればかりか、こう命じられた、イエス様ご自身が、私たち罪人の隣人となってくださったことを忘れてはなりません。イエス様は、私たちの罪のために、十字架で死に、墓に葬られ、三日目に復活し、救いの御業を成し遂げてくださったのです。ですから、恵みにより、信仰によって、義と認められ、神様に受け入れられた私たちは、神様を愛し、隣人とかかわり合いを持つことができるのです。

豆知識

「律法の専門家」(25)は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の最初の部分モーセ五書を研究する学者で、神様のみが罪を赦すことができると信じていたといわれています。

「永遠の命」(25)について、イエス様の時代には、多くのユダヤ人が、死後の生を信じ、待望していたといわれています。しかし、モーセ五書(律法)に、明確には述べられていないことで、サドカイ派のように「永遠の命」を信じていない人々もいました。イエス様は、ご自身を「主メシア」と信じる、すべての人に「永遠の命」が与えられると宣言しました。

「エルサレムからエリコへ」というのは、海抜約762mの都エルサレムから、海抜約−244mのエリコまで、その距離約26kmの長い降り坂であったことを意味しています。

「祭司」(31)は、モーセの兄アロンの子孫に属する人々で、律法によれば、血に触れて汚れると、神殿での任務に戻るためには、清めの儀式をしなければなりませんでした。

「レビ人」(32)は、神殿で「祭司」たちを補佐していました。そのため、補佐する彼らも同様に、汚れることを恐れていました。

「サマリア人」(33)は、エルサレム北部のサマリア地域の出身者のことで、イエス様の時代には、ユダヤ人とサマリア人とは、お互いに不信感を持ち、交わりを絶っていたといわれています。

「憐れに思い」(33)は、「スプランクニゾマイ」というギリシャ語で、「はらわたが痛む」とか「はらわたを突き動かされる」という意味の言葉で、神様の深い憐れみをあらわしています。新約聖書の中では、イエス様に関連してのみ使われています。このことからも、このたとえ話の中の「サマリア人」が、イエス様ご自身を指していることが分かります。もちろん、肉においてイエス様は、れっきとしたユダヤ人(ユダ族)、ダビデ王家の末裔として生まれて来られましたが、このたとえ話ではご自身をユダヤ人から歓迎されない「サマリア人」として語られたのです。

「油とぶどう酒」とは、イエス様の時代において、薬として用いられていました。特にオリーブ油は、癒しの儀式に用いられてことが分かります(ヤコブ5:14参照)。

説教

レビ記19章18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と書いてあります。ある律法の専門家は、——自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」(29)——と、イエス様に質問をしました。この時、イエス様が語られたのが、「善いサマリア人」の名で知られるたとえ話です。

有名なたとえ話なので、詳しいことの経緯は省略しますが、登場人物の確認をしましょう。旅の途中で追いはぎに襲われ、半殺しにされた「ある人」と「追いはぎたち」。「ある人」を避けて、道の向こう側を通って行った「祭司」と「レビ人」。「ある人」を憐に思い、手当てし、助けてあげた「サマリア人」。旅を続ける「サマリア人」が、「ある人」を介抱して欲しいと頼んだ「宿屋の主人」。

イエス様は、この中から「祭司」、「レビ人」、「サマリア人」、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(36)と、ある律法の専門家にいわれたのです。ある律法の専門家は、「その人を助けた人です。」(38)と答えました。「その人」とは、彼が口にするもの嫌だった、「サマリア人」のことを指しています。そして、このたとえ話の「サマリア人」こそ、イエス様ご自身の姿だったのです。イエス様は、ある律法の専門家に、「行って、あなたも同じようにしなさい。」(38)と命じられました。

つまり、この御言葉は、神の子であるイエス様が、人間となり、罪ある人間を愛して、私たちとかかわりを持ち、隣人となって、律法の愛し愛されることを身をもって示しているのです。ですから、同じように、神様から憐れみを受けた、あなたがたも、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(6:27)と、イエス様は教えられたのです。

宗教改革者マルティン・ルターは、この箇所を、次のように解き明かしています。「よきサマリヤ人は、半死半生の罪人を自分の病院につれこまれるキリストのひとつの典型です。それでは、病人は正しい人なのでしょうか。いな、彼は罪人です。しかし同時に義人です。実際には罪人です。けれども神が彼のことを心配なさり、彼を自由にし、ついにはその罪を完全にいやしてやるという確かな約束を与えてくださったので、正しい人です。……彼は、義へと出発しましたし、それに向って進むでしょう。」

恵みにより、主と共に歩みを起し、義へと出発した私たちも、ある人を「憐れに思い」、その人とかかわり合いを持つように導かれたのなら、主と「同じように」(37)、敵味方の区別なく、その人の隣人となるのです。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□61番 「いつくしみふかき」

□130番(改訂版) 「いつくしみ深い」

やってみよう

☆よりそうことば

その①

だれかが、「友だちにからかわれていやだった」と言ったとき、なんて言ったらいいでしょうか。

①「何か嫌われることを、きみもしなかったかい」

②「へいきさ、そんなことどうってことない」

③「そんなことでいじけていたら、生きていけないよ」

④「そうか、からかわれていやだったんだ」

⑤「くやしかったんだね」

☆たとえ話を演じてみよう

・今日の聖書に出てきた登場人物を子どもたちに聞く。(レビ人、祭司、サマリア人他)

・どんな立場の人でどんな仕事をしていたでしょうか?レビ人→人々から尊敬され、律法を守る正しい人。ユダヤ人と仲良し。祭司→神さまに仕える仕事をしていた。サマリア人→ユダヤ人と昔から仲良くなかった。

・今日の聖書を読んで、即席劇をしてみよう。

※時間があれば、いろんな役を交代して体験してみましょう。

・劇をした後、自分が演じた役の人物がどんな気持ちだったかを紙に書いて、発表しましょう。

はなしてみよう

その①

・追いはぎに襲われた人を見たら、あなたならどうしますか。

・通り過ぎた祭司やレビ人の気持ちを考えてみましょう。

・良いサマリア人はだれですか。

その②

誰かを助けるということは、そんなに簡単なことではないとおもうかもしれませんが、小さなことから考えてみると、私たちに出来ることは結構たくさんあります。自分が今までやってきた、誰かを助けたというエピソードを話してください。逆に、誰かに助けてもらったというエピソードはありますか?もし、自分が道路で怪我をしている人を見つけたら、あなたは祭司やレビ人のように振る舞いますか?それともサマリア人のように振る舞いますか?