十字架の出来事は、人の目には悲しく辛く、敗北に見えることです。しかし、神には人の罪を贖うためにどうしても欠かせない出来事でした。輝く姿を通して、これから起こる出来事は神様のご計画なのだと、三人の弟子に教えておられるのです。
ですから、私たちがなすべきことは、私たちの知識や思いを基準に理解しようとしないで、起こっていることの中に、神様の思いを聞くことでしょうし、それによって御心を理解していくことができるのでしょう。
輝く姿を想像することは楽しいことです。それとは反対に、十字架につけられたイエス様を見詰めるのは辛いことです。目に見えることに心を寄せてしまうと、何が大切なことなのかを見失ってしまいます。神様は「これに聞け」と言われます。イエス様の言葉を聞き、従うことを大切にできる私たちになりたいものです。
イエスがモーセとエリヤと話しておられたのは「最期」のことだと記されています。この言葉は「エクソドス」という言葉で、出エジプトも「エクソドス」と言いますから、奴隷からの解放であった出エジプトに重ねると、罪の奴隷からの解放が十字架の出来事なのだと理解できます。
12人の弟子たちの中で、イエス様は時折、ペトロ・ヨハネ・ヤコブの三人だけを呼び出されます。会堂長ヤイロの娘を癒す時(ルカ8:51)もそうでしたから、この三人が特別な位置を占めていたことが分かります。三人だけが呼ばれた時には、彼らも特別な気持ちで従っていただろうことは容易に想像できます。
雲は神様の栄光が臨在するものと示唆されています。出エジプトの際に、脱出した民を雲の柱・火の柱が守ったことからも明らかです。