自分自身の内に塩を持つ。イエス様の十字架の重荷をもつ。これが私たち互いを平和にすごすコツです。自分は自分はと前にでず、自分の重荷(十字架)をかえりみること、悔い改めることが人をイエス様へと導くのです。「つまづかせる」ものにならず、「罪を犯させる」ものにならず、主の平和のうちに過ごすことができる。
それは十字架の重荷を中心におき、互いに負いあうことで築き上げられていくのです。塩はよいもの。私たちの中にある、主にある重荷はよいものです。それによって多くの人々をつまずかせることもなく、むしろ平和を持つことができるのです。
ここで語られたイエス様の言葉は、とても謎にみちています。いったい何をイエス様は言われたのでしょうか。何度も読み返すうちにはっきりしてくることは、「つまずかせるならばそれを捨てよ」ということです。これはイエス様に従うものの努めだといえます。
それでは「つまづかせる」とは一体どういうことでしょうか。実は、この「つまずかせる」という言葉は、「罪を犯させる」と言う言葉と同じです。ですから読み替えてみると、イエス様は「わたしを信じるこの小さな者の一人に罪を犯させるなら」と言われたことになります。
イエス様に従うものは、小さい者に罪を犯させるようなことをしてはならないし、させてはならない。そして自分自身に対しても罪を犯させてはならない。むしろ自分自身の内に十字架の重荷を持つことで互いに平和に過ごしなさいといわれました。
キリスト新聞社版『聖書辞典』の塩の項の説明に「パレスチナの岩塩は風化したり湿気を吸って潮解し、後に『塩気がなくなった塩』が残り、肥料にもならず、無用の長物として道に捨てられる」と記されています。「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである(マタ5:13)」ということです。塩は、腐敗を防いで清さを保つ、長持ちさせる効果があります。生命の維持に欠かせないものでもあります。「地の塩」であることとは、地上にあってイエス様の塩味を効かせることです。また塩は「重荷」と一緒に語られることもあります。聖書における「塩」はいろいろなたとえで用いられています。また「光」と一緒に語られています。