イエス様が子どもを受け入れるとき、子どもが子どものままで受け入れられていることがわかります。「神の国はこのような者たちのものである」と言われました。子どもは子どものままで、ありのままに受け入れてくださるのです。同じように、子どものように神の国をありのまま受け入れることの大切さを教えられました。
人々が小さな子どもをイエス様のもとに連れてきたことに始まります。彼らの目的は、ただイエス様に触れていただくためでした。触れていただくとは祝福してほしいというたった一つの願いがあったのです。ところが弟子たちは、その人々を叱りつけたのです。ただでさえ忙しいイエス様に迷惑がかかると思ったのでしょう。イエス様はその弟子たちをみて「憤る」のです。原文のギリシャ語でも、かなり激しい言葉がつかわれています。弟子たちにとって、子どもはイエス様の話は理解できないと思っていました。しかし、まず子どもたちを受け入れてくださるのです。
聖書には「幼子」「子ども」について以下のようにでてきます。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに表してくださいました。(マタイ福音書11:25))「私が子供であったときには、子供として話し、子供として考え、子供として論じましたが、おとなになったときには、子供のことをやめました。(コリント人への第一の手紙13:11)」「兄弟たち。物の考え方において子供であってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(コリント人への第一の手紙14:20)」「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル人への手紙5:12-13)」あまり良い意味ではありません。しかしだからこそイエス様は「あるがままに」受け入れないといわれたのかもしれませんね。