33節の「両耳」と言うときの単語は、体の器官としての耳ですが、35節の「耳」は、「聞こえること」といった意味の別の単語が使われています。確かに、耳が聞こえるようになった癒しのみわざの話ですが、「聞こえること」「聞こえないでいること」とは何だろう、と考えさせられるところです。実際、私たち、聴力があっても、同じ話を聴いていても、違うように聞いたり、右から入って左へ抜けて行くこともありますからね。
同じく、35節の「舌のもつれ」と訳された単語は、「舌が縛られていること」「舌の拘束」といった感じです。しゃべることはできても、しゃべれないことがあります。本当は言いたいのに、言えないことがあります。「わたしは神様を信じています」と素直に言えないこともあります。「わたしは教会に通っています」と言えないこともあります。「そういうこと、やめようよ」と勇気を持って言えないこともあります。何が、「舌の拘束」になっているのでしょう。そして、その「舌の拘束」を解いてくださるイエスさまのみわざとは。
カチカチと音のする時計を持って来る。
自分の耳に指を入れて時計の音が聞こえるか聞こえないか試してみる。
二つのチームに別れて片方のチームはみんな耳に指を入れて聞こえない様にする。
別のチームが声を出さないで大きな口をあけてみんなで「イエスさま」とか「せいしょ」とか好きな言葉を言って当ててもらう。出来たら交替する。
耳の聞こえない人、聞こえにくい人はどんな時に困るか想像して話し合う。
高学年
昔は体の不自由な人は(耳でも目でも手足でも)みんなから差別されていたことを学ぶ。
イエスさまは差別されている人や弱い人も神様から選ばれた大切な一人であることを色々な時に私たちに教えて下さいました。聖書の中でどんなお話があったかおもいだしてみましょう。