心の耳、信仰の耳が開かれるという展開の中で、この物語を、自分のこととして受け止めることが、今回のねらいです。
言葉はなくても、心が通じ合った、というような体験をお持ちの方は、そのご自身の体験、エピソードなどをお語りくださってもよいと思います。また、人間関係ということでなく、神さまの御言葉が、こんなときに、自分の心に飛び込んできた、ジワーッと伝わってきた、といった経験も、子どもたちに伝わると思います。その時、きっと神様は、「エッファタ」と言っておられたはずですから。
「エッファタ」というところだけ、突然、イエスさまの肉声が聞こえるような言葉です。当時、お使いだったアラム語です。基本的には、わたしたちの使う今の言葉に訳されて行くのが聖書ですが、このようにその時のイエスさまの肉声が書き残されているのは、その言葉が、当時の人々にとって深く刻まれていたからだと思います。ひょっとしたら、色々な場面で、実際に用いられていたのかもしれません。考えてみると、わたしたちの信仰生活でも、アーメン(然り)は翻訳されずに、そのまま用いています。ハレルヤ(主を賛美せよ)も同じです。当時の人々と同じ言葉を使うことで、その時の様子を、生き生きと思い起こすことができます。こういうイエスさまの肉声、ほかにも思い出せますか。
あるとき、二人の女の子が仲良くなりました。ふたりは、2歳と3歳の女の子。まだそんなにじょうずにお話はできません。それだけではありません。その二人、ひとりは日本人で、もうひとりはフィンランド人。お互い、言葉が分かりません。でも、ふたりは、顔を見て、にっこり笑って、仲良くなって、手をつないだり、踊ったりして、楽しそうに過ごしていました。
その子供たち二人の姿を見ながら、わたしは、初めて会った人、それも、言葉もわからない人と、あんなに仲良くなれるかなぁ、わたしだったら難しいだろうな、と思いました。わたしは、(自分の耳を触って)この耳は、聞こえます。音楽を聴いたり、鳥の声を聴いたり、みんなの声を聴いたりすることができます。でも、相手の人が、知らない国の言葉を話したりしたら、一所懸命聞こうとしても、何もわかりません。そういうとき、(自分の耳を触って)この耳は、あんまり役に立っていないようです。
(自分の耳を触って)耳の聞こえない方が世の中にはいらっしゃいます。音楽も聞こえないし、鳥の声も聞こえなし、みんなのおしゃべりも聞こえない方が世の中には、いらっしゃいます。耳の聞こえない方は、よく手話と言って手や表情をいっぱい使ってお話をします。そういう、耳の聞こえない方と出会った時も、(自分の耳を触って)この耳は、あんまり役に立っていないようです。
だから、耳の聞こえない方と出会った時とか、言葉の分からない外国の人などと出会った時、私たちは、「どうせお話することができないから」と思って、あんまりちゃんと顔を見ることもしないし、お友だちになろうとしないことが多いと思います。本当は、あの小さな二人の女の子のように、だれとでも、仲良くなれるといいですよね。
さて、あるところに、耳が聞こえず、言葉をあまり話すことのできない人がいました。きっと周りの多くの人は、その人とお友だちになれなかったのではないかなと思います。でも、イエスさまは、その人と二人きりになって、顔と顔を向き合わせて、その人のお顔をよく見て、その人の目をしっかり見つめて、「エッファタ」とおっしゃいました。エッファタというのは、「開け」という意味の言葉です。そうしたら、その人は聞こえるようになり、言葉も話せるようになりました。
わたしは思うのです。この人は、この時、イエスさまによって耳が聞こえるようになり、話もできるようになりました。それは、とっても嬉しいことだったと思います。でも、言葉の分からない外国の人と出会ったり、耳の聞こえない方と出会った時、この人も、お話ができなくなるかもしれません。イエスさまは、「エッファタ 開け」とおっしゃいました。これは何を意味していたのでしょうか。そこには、ふたつの意味があったと思います。
ひとつは、(自分の耳を触って)この耳が聞こえるようになることだけではなくて、いろいろな人と心を開いて、過ごせるようになることです。言葉が通じなくても、その人を大切にする心、同じ神さまの子供、神様の家族と思って、その人のことを大切にする心。その心を開いてくださったと思います。そして、そしてもうひとつは、(胸のあたりを触って)心の耳を開いて、神さまのお言葉をしっかり聴けるようになることだったと思います。「ふん、聖書の言葉なんて、うそだ」なんて言って、わたしたちの心の耳は、ときどき、聞こえなくなってしまうことがあります。(胸のあたりを触って)心の耳を開いて、(聖書をしっかり持ち)わたしたちが神さまのお言葉を、しっかり聴けるように、祈りたいと思います。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□123番 「かなしいときにも」
□改訂版133番 「歩こうみんなともに」
33節の「両耳」と言うときの単語は、体の器官としての耳ですが、35節の「耳」は、「聞こえること」といった意味の別の単語が使われています。確かに、耳が聞こえるようになった癒しのみわざの話ですが、「聞こえること」「聞こえないでいること」とは何だろう、と考えさせられるところです。実際、私たち、聴力があっても、同じ話を聴いていても、違うように聞いたり、右から入って左へ抜けて行くこともありますからね。
同じく、35節の「舌のもつれ」と訳された単語は、「舌が縛られていること」「舌の拘束」といった感じです。しゃべることはできても、しゃべれないことがあります。本当は言いたいのに、言えないことがあります。「わたしは神様を信じています」と素直に言えないこともあります。「わたしは教会に通っています」と言えないこともあります。「そういうこと、やめようよ」と勇気を持って言えないこともあります。何が、「舌の拘束」になっているのでしょう。そして、その「舌の拘束」を解いてくださるイエスさまのみわざとは。
カチカチと音のする時計を持って来る。
自分の耳に指を入れて時計の音が聞こえるか聞こえないか試してみる。
二つのチームに別れて片方のチームはみんな耳に指を入れて聞こえない様にする。
別のチームが声を出さないで大きな口をあけてみんなで「イエスさま」とか「せいしょ」とか好きな言葉を言って当ててもらう。出来たら交替する。
耳の聞こえない人、聞こえにくい人はどんな時に困るか想像して話し合う。
高学年
昔は体の不自由な人は(耳でも目でも手足でも)みんなから差別されていたことを学ぶ。
イエスさまは差別されている人や弱い人も神様から選ばれた大切な一人であることを色々な時に私たちに教えて下さいました。聖書の中でどんなお話があったかおもいだしてみましょう。