人を汚すものは、自分の外から入るものではなく、自分の中から出るものであり、自己の内面と向き合う。
悪意であれ、悪口であれ、外からのものは、本来、その人を汚す効力を持たない。なぜなら、イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者たちから悪意を向けられても、兵士たちから悪口を言われても、それによって汚れることはなかった。23節に「これらの悪はみな中から出て来て」とあるように、「みな中から」なのである。
自己の内面に気づく力を養う。また、悪しき思いに気づいたら、それを手放していく。
人から悪口を言われて気にしないという人は稀かもしれないが、外からの悪に振り回されないように、心の中にイエスさまを迎え、しっかりとイエスさまと結ばれていく。
本来、律法は人を生かすためのものであったが、律法学者とファリサイ派の人々の教える律法は、形式的となり、真意が失われ、誤用されるようになった。イエスさまは、真意から律法を説くが、それは、彼らの目から見れば、律法違反と映る自由な態度であった。
律法学者とファリサイ派の人々の説く律法は、自分たちの正当性を主張し、人を裁くために用いることが多かったため、イエスさまは、彼らの態度を痛烈に批判している。しかし、イエスさまの主訴は、そこにあるのではない。失われた真意を取り戻すことにある。すなわち、人を生かすために、正しく用いる極意を示したいのである。17節以降で、それは弟子たちだけに解き明かされている。
「ファリサイ」は分離する者。
「偽善者」は「俳優」に由来し、舞台で仮面をかぶって演じる役者のように、見せかけの正しさを演じている。
「身を清める」は、汚れを洗い落すこと。市場は、大勢の人々の行き交う場所で、そこでは、汚れをもつ異邦人や病者とも接触した可能性があり、そのため、彼らはいつも体を洗って(バプティゾ)、身を清めていた。
「コルバン」は「供え物」の意味で、神に献げられたものの名称を指す。律法には「父と母を敬え」とあり、高齢の両親を大事にすることが説かれている。しかし、両親を大切にせず、わずかな「コルバン」を渡すだけで、思いやりに欠ける子どもが多くいたのであろう。律法の解釈を捻じ曲げて言い訳にしている人々に対するイエスさまの批判。