TNG The Next Generation

2023年9月3日 聖霊降臨後第14主日

福音書 マタ16:21〜28
第一の日課 エレ15:15〜21
第二の日課 ロマ12:9〜21

今週の聖句

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
マタイによる福音書16章24節

ねらい

 イエス様の十字架を見つめ、そして私たち自身の十字架を考える。

説教作成のヒント

 キリスト教にとって「十字架」はあまりにも聞き慣れた言葉であり、いまさらそのことについて考えることに意味を見出せないかもしれません。しかし、私たちはいつのまにか「自分が考える十字架」というものを造り上げ、それを「キリスト教の十字架」と考えていることがあるのです。ですから、まず「聖書の十字架」、すなわち「イエス様の十字架」を見つめましょう。

 「わたしについて来たい者は」と言われています。私たち、教会に連なっている者に呼びかけていらっしゃるのです。イエス様について行きたい者である私たちは、イエス様が十字架を負ってくださった姿をしっかりと見つめ、そしてその足あとを辿りながら従って行く群れなのです。ですから、まずイエス様がどのようにして十字架を背負ってくださったのか、そこに焦点を当てて行きましょう。

豆知識

 ルカによる福音書にも同じ話が書かれていますが、ひとつだけ異なるのは「日々、自分の十字架を背負って」(9:23)と書いてあることです。一生涯をかけて背負わなければならない重い十字架というようなものではなく、日常的に、あるいは日替わりのような重荷(肩の荷)のことを言っているようです。どの福音書を読むかで、ずいぶんと十字架の意味が異なるものですね。

説教

 十字架から、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。十字架をペンダントや耳飾りなどのアクセサリーにしている人を見かけることがあります。でも、もともとの十字架は、そんなおしゃれなものとは違いました。実は、イエス様の前からあったのです。ユダヤの地を治めていたローマ人がすでに考え出していたのです。人を死刑にするための、しかも長く苦痛を与えるための恐ろしい道具でした。ですから「十字架」と聞くと、人々はきっと眉をしかめたに違いありません。

十字架につけられる犯罪人は、自分の十字架を背負って丘まで歩かなければなりませんでした。「悪いことをすると、こんなひどい目にあうぞ」ということを人々に教え込むために、十字架につけられる犯罪人は群衆の前を歩かされ、みんなに見える丘まで十字架を背負ったのです。ですから、イエス様が弟子たちに向って「自分の十字架を背負って」と言われたのは、イエス様ご自身がこれからなさることだったのです。

イエス様が十字架を背負われた時、自分の力で背負えないほどに衰弱されていました。ですから、たまたま近くにいたシモンという人に代わりに背負ってもらったほどでした。十字架はとても重かったのです。実はイエス様は、十字架を喜んで背負われたのはありませんでした。十字架にかけられる前の夜に父なる神様に、「この杯(十字架の苦しみのこと)をわたしから過ぎ去らせてください」(26:39)と必死に祈られたのです。でもそれは「自分の思い」であることをよくご存じだったのです。ですから最後には「わたしの願いではなく、神様のみ心のままに」してくださいと祈られたのです。

このようにして、イエス様がまずご自分の十字架を背負ってくださったのです。私たちにも背負わなければならない「自分の十字架」があることを教えるためでした。それはどんな十字架なのでしょうか。きっと様々な十字架があるのです。もっと身近な言葉で言えば「重荷」とか「肩の荷」という言葉に置き換えられることです。つらいこと、放り出したいことと言ってもよいのです。それは皆さんが少しずつ考えて行っていただきたいことです。でも忘れないでほしいことは、どこかに投げ捨てたいと願ったとしても、どうすることもできないものがだれにもあるということです。

でも大丈夫です。私たちには、イエス様がまず「自分の十字架を背負う」ということの手本を示してくださったからです。イエス様ご自身も、ご自分の十字架を背負うことができなかったのですが、代わりに背負ってくれる人がいました。皆さんの近くにも助けてくれる人がきっといるのです。いや、イエス様が必ず私たちの十字架を一緒に背負ってくださるのです。このことを忘れなければ大丈夫です。「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)というイエス様の言葉を思い出すこともきっと力になることでしょう。イエス様の十字架をしっかりと見つめ、そして私たち自身の十字架を背負って、イエス様に従う者でありたいと思います。

(執筆:立山忠浩牧師)

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

旧版(1987年版)127番「イエスさまのじゅうじかを」、改訂版84番「イェスさまのじゅうじかを」。

やってみよう

☆自分の重荷を神様に伝えてみよう!

<用意するもの>

筆記用具、付箋のような紙(画用紙でも可)


①話を振りかえり、自分の抱えている困難や辛さを考え、紙に書いていく。

「喧嘩をした時に許せなかった」

「強い言葉で相手を責めてしまった」

「困っていた人に声をかけられなかった」

など…。

②書くことが出来たら、大きな模造紙や壁にみんなで貼っていく。この時に十字架の形になるように貼り、飾る。

③みなさんの抱えている重荷は、こうして十字架となり、イエス様が背負ってくださるよ。

はなしてみよう

・イエス様が背負われた十字架について(形、大きさ、重さ)などを想像してみよう。

・自分にとっての十字架とはどういうものだろう? 仲間と話せるものもあるでしょうが、なかにはそう気軽に話せないものもあるかもしれません。様々な十字架があることを考えるだけでもきっと意味があることでしょう。

・イエス様の十字架を代わりに背負った人がいました、私たちもだれかの十字架を少しは背負うことができるかもしれません。だれかの十字架にはどんなことがあるのか、そして自分も少し背負うことがあるとすればどんなことがあるのだろうか、話し合ってみましょう。

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