・神様に対して反感を抱いているのは私たち人間であり、仲たがいしている神との関係を回復してくださったのは神であることを伝える。
・神様への悔改めについて伝える。(マタイ4章17節)
・「~してはならない」生き方から「~する」生き方へと変えられていることを伝える。
・「殺すな」「姦淫するな」「離縁するな」という言葉は律法に記されている。神と人とが、そして人と人とが神中心に正しく生きるために与えられた御ことばである。しかしその言葉を人間は「~するな」という教えを「~しなければいい」と変換していく。殺さなければ恨んでも、憎んでもいい、腹を立ててもいいと。しかしながら、イエス様はこの教えを先鋭化する。その思いの先には「殺すな」という掟を破る末路があると。
・23節「兄弟が自分に反感をもっているのをそこで思い出したなら」、25節「あなたを訴える人」とあるように、そこには敵対者が居る。神の愛、憐みは、そのような中で「殺してはならない」という律法があるから穏便に「恨むくらいにしておこう」「腹を立てるだけにしておこう」ではなく、むしろその人たちと和解への道を歩むように勧める。平和を造り出すようにとイエス様は語っている。
・献げ物を通してユダヤ教は様々な祭儀を行っている。仔羊、子牛、山鳩、うずらなど様々なものを神に献げることにより、ユダヤ人たちは神への信仰を表現し、時に赦しを得るために行なってきた。これも律法に定められていることである。イエス様は、それらの献げ物の内で贖罪の献げ物としてご自身の命を十字架に献げられた。高いところから自分を恨む者、怒りを向ける者(実際十字架の場面イエス様に祭司や民衆の怒りが向けられた)のところへ和解するために降りてきて、ご自身を罪の赦しの献げ物として命を差し出した。
・「~するな」はいつのまにか「~しなければいい」と際限なく緩和されていく。しかしながら、イエス様はそれを否定する。その緩和の先に「~するな」を守ることができない人間の姿を見る。罪を犯す人の姿を。そのような中で神から愛されている者、憐みを向けられている者はどのような生き方へと促されているのか。力を与えられ背中を押されているのか。
「兄弟」とあるが、これは肉親という意味合いもあるが、もう一つに共同体に生きる隣人とも取れる。