姿は見えなくても神が共にいてくださることに信頼する。
奇跡に目を奪われない。無理に分かるように落とし込まなくて大丈夫。ペトロも何が何だか分かっていない。
神の姿は見えないが神の言葉を聞くことはできる。
旧約聖書では神を直接見ると死んでしまうという記述があります。義なる神は裁く神で、その光を人間は直視できないからです。アダムとエヴァは罪を犯した時に神の目を避けて隠れてしまいました。そのため、神が人間に姿を表す時は雲で覆って直接見えないように配慮されています。
眠いのって我慢できない時がありますよね。起きてないといけないと分かっていても、どうしても眠ってしまうことがあります。自分は眠っていないつもりでも、気づいたら眠っていますから、もう止めようがありません。しかも牧師さんがお話をする時は特に眠くなります。大事な話ほど眠くなるものです。今日の聖書のお話でもペトロや他の弟子が大事なところで眠ってしまっています。眠くて眠くて仕方ない時、皆さんは何を考えていますか。だいたいは関係ないことを考えていると思います。その時は真面目に話を聞こうとしているんですが、後から思い出すと全然違うことを考えていたりするんです。ひどく眠い時は意識もはっきりしていないからです。ですから、ペトロたちは、どちらにしても、大事な場面のことは頭に入ってきていません。しかし、実はすごいことが起こっています。聖書には「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と書かれています。目の前の人がいきなり光り輝き出したら驚きます。目が覚めたペトロは慌てて自分でも何を言っているか分からないことを言います。しかし、すぐに雲が覆ってしまって姿が見えなくなってしまいます。ペトロたちは雲に覆われて何も見えなくなったので怖くなりましたが、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえました。私たちの目の前が見えなくなると怖いと感じます。それでも誰かが傍に居てくれて「大丈夫だよ、こっちだよ」と声をかけてくれたら安心します。私たちには神様の姿が見えませんので、神様って本当にいるのかなと思ったり、どうやったら見えるのかなと思ったりしますが、姿は見えなくても言葉を聞くことはできます。聖書に書いてあることを私たちは読むことができるからです。姿は見えなくても、いつも一緒にいてくださると書いてあります。だから、私たちは安心して眠たくなってしまうのですね。
(執筆:多田 哲牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)102番「イエスさまのおこえが」、改訂版16番「イエスさまいるってほんとかな」。
一人が目隠しをします。そして指示する人を一人決めて、その人の声を聞いてスタートからゴールまで歩いてみましょう。それ以外の人たちは色んな音を出したり、間違った方向を教えたりして、邪魔をします。
どうしても眠くて仕方がない時、どうやって眠気に耐えますか。
夜ちゃんと眠れていますか。不安なことがあると眠れなくなってしまいます。