イエス様は子どもたちをありのままで迎えて下さる。自分を偽る必要はなく、その子どものままで迎えられることに感謝しましょう。
新共同訳聖書では「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 と訳されています。ギリシャ語の原文には、ホース・パイディオン「子どものように」とだけあります。「子どもを受け入れるように神の国を受け入れる者でなければ、神の国には入れない」という訳も成り立ちます。
文法上二つの訳出が可能となります。「子どもが受け入れるように」と、子どもを主格とするものと、「子どもを受け入れるように」と子どもを対格にする場合です。子どもが主格なのか対格なのかは、文法上どちらも訳が可能であり、いずれであるかは文脈から判断するしかありません。従来多くの解釈は、「子どもが受け入れるように」と、子どもを主格とすることで、子どものある特性が、大人が見習うべき模範であるという読み方をしてきました。そのような訳の下で、子どもの特性は、全幅の信頼を寄せて他者を受け入れる姿や、究極の謙遜性などと考えられてきました。
イエス様は、子どものどのような姿が模範だと思っておられたのか。子どもが持つ特性を、連れてこられた子どもが招かれるという場面から考えるのは非常に難しいと思います。むしろ子どもそのものを受け入れるようにではないのかなと考えました。
イエス様が生きたユダヤ社会では、子どもの誕生は喜びの出来事とされ、子どもは神の祝福の象徴でした。これに対して新約におけるイエス様の子ども理解は、そのようなユダヤ教の子ども観とも、当時のギリシア・ローマ世界における有用性に基づく子ども観とも全く異なっています。それらの子ども観を根底から覆すものでした。イエス様は、子どもはありのままで神に受容され、祝福され、み国に入る者の象徴として信仰における大人の模範とみておられます。