マタイ福音書では、明らかに神に選ばれる良い麦と、切り捨てられる毒麦に分けて考えている。その場合、毒麦は種の時点で毒麦である人生が決定される。そこに救いの余地はない。
しかし、イエスは「良い麦を間違えて抜かないように、毒麦も成長させるように」とたとえ話の登場人物に語らせている。「生き方次第で良い麦に変わることができる、実った時に良い麦であれば良い。」と考えておられるのではないだろうか。
麦と毒麦の実の違いは、下記リンク先の図のように並べると分かりやすい。しかし、一面の畑では見つけづらく、また葉っぱだけならば更に区別は難しいだろう。だからこそ、間違えて抜かないように、少しでも分かりやすい実った後に処理をするように、イエスが提案したのだと思われる。
http://igmtokyo.com/sermon/2007/01/sermon070121pw-A.html