・イエス様が復活されたのは、弟子たちの罪がゆるされて平和に生きるためです。
・復活したイエス様と出会ったとき、弟子たちはどんな気持ちだったでしょうか。イエス様を裏切ったことを思い出して、「イエス様から何を言われるのだろう」と恐れたのではないでしょうか。
・復活したイエス様が弟子たちに語りかけた最初の言葉は、「あなたがたに平和があるように」でした。恨みの言葉ではなく、弟子たちのことを大切に思う言葉です。
・そして、聖霊を受けよと命令形で語られ、罪の赦しについて語られます。
・「平和」は、ヘブライ語で「シャローム」と言います。今日の箇所でイエス様が言われる平和とは、私たちがイメージする「戦争がない状態」とは異なります。「シャローム」は、「(神によって)バラバラになっているものが統一されること」という意味です。つまり弟子たちは、恐怖によって心が散り散りになっていたのですが、安定を取り戻していくということが「平和」です。
・弟子たちが家に閉じこもっていた理由は、人々から「あいつらはイエスの仲間だ」と思われて暴力を振るわれたり、これから自分たちはどうやって生きていけば良いのか見通しが立たない、という恐怖です。さらに、復活した後のイエス様と出会った瞬間も、弟子たちは恐怖を感じたと思います。なぜ死んだはずの人間がここにいるのかという驚きと、「自分たちはイエス様を裏切った。イエス様がここに現れたのは、自分たちに復讐するためだろうか」、という恐れです。
・ところがイエス様が弟子たちにかけた言葉は「あなたがたに平和があるように」でした。恐怖に取りつかれて閉め切った部屋に閉じこもり、身動きが取れなくなっている弟子たちに、「あなたがたはいま恐怖でバラバラになっているが、統一されなさい(安心して元気に過ごしている状態になりなさい)」と言葉をかけたのです。
・私たちも、恐怖によってパニックになると、次々に悪いことを考えてしまうのではないでしょうか。また、恐怖は他人に伝染していきます。そうすると、悪いことが起こらないように(外から人が襲ってこないように)と部屋に鍵を掛けたりしますが、それは根本的な対策にならず、バラバラになって孤立したまま、不安を増していくのです。
・恐れに支配されて身動きができなくなった人々の真ん中に、復活したイエス様が現れます。その登場は私たちを驚かせたり怪訝な気持ちにするかもしれません。その時、まずイエス様が語られる言葉は「あなたがたに平和があるように」です。
・ですが、トマスという人は、みんなが最初に復活のイエス様と出会ったときに、その場所にいませんでした。自分だけみんなの話についていけず、「復活したイエス様と会えたら嬉しいのに」と思いながらも、自分の目と手で確かめてみない限り決して信じない、と言います。おそらく当時(2000年前)から、イエス様を信じる人の中でも、復活の話は信じられない、という人たちがいたのでしょう。トマスは、「復活なんてナンセンスだ」と考える人の気持ちを代弁しています。
・信じるよりも疑う方が、この世では賢い態度だとされています。誰かにだまされて傷付いたことのある人は、もう二度とだまされないと、何度も確認するようになります。そして、証拠がない限り信じようとしません。そうすると、誰とも安心した関係を築くことができず、常に緊張し続けていなければなりません。あまりにも「確認すること」が行き過ぎると、本人も周囲も疲れるうえ、「信じて貰えないんだな」とバラバラになってしまいます。「見ないのに信じる人は、幸いである」というイエス様の姿は、「だまされたっていいじゃないか」という、おおらかな生への導きです。
・「トマス」は、『きかんしゃトーマス』の「トーマス」と同じ名前です。機関車トーマスの住むソドー島には弟子の名前を持つ機関車たちが3人(台)います。ジェームズ(使徒ヤコブ)とステップニー(使徒ステファノ 使徒言行録6~7章)。原作者が意図して弟子の名前をつけたのかはわかりませんが、シリーズの原作者ウィルバート・オードリーはイギリスの牧師です。
・ユダヤ教において、何かを認識するときに重要なのは声を「聴く」ことです。いっぽう、「見る」ことや「触る」ことで確かめようとすることは、日常生活ではよく行うものの、信仰的な行為であるとは考えられていませんでした。
・トマスは、他の弟子たちがイエスを見たと「聴」いたとき、信じられませんでした。そして、自分の指で触って確かめなければ、イエス様が復活したことを信じない、と言います。
・復活したイエス様は、トマスの疑いに応えるために、目に見える姿で現れ、ご自分の身体に触れるように命じます。トマスがそれに応えて実際にイエス様に触れたかは分かりません。トマスは、復活したイエス様に「わたしの主、わたしの神」と告白します。
・福音書には、イエスを直接「神」だと断言している箇所がありません。多くの場合、イエスは「神の子」と言われています。ところがトマスは、感極まってという状況もありますが、イエスに対して直接「わたしの神」と告白しています。