24節で「命」、25節で「自分の身」と訳されているのは、ギリシャ語の「プシュケー」で、この他にも「魂」や「生命」という意味があります。この「プシュケー」よりも、イエス様は「わたしに従いなさい。」(23)と命じ、「わたしとわたしの言葉を恥じる」(26)ことがないようにと、繰り返し教えられています。つまり、この箇所のポイントは、イエス様が語られていることからも明らかなように、何よりも、神の子イエス・キリストを優先するように、また御言葉を大切にするようにということです。それでは、どのようにイエス様を優先するのでしょうか? また、いかにして御言葉に従って歩んで行くのでしょうか?
私たち生まれながらの人間には、イエス様に従って行く力はありません。しかし、恵みにより、信仰によって、救われた人には、主なる聖霊が与えらます。聖霊の働き、神様の助けによって、イエス様が、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23)と命じられた、御言葉を生きられるように、私たちは導かれているのです。ですから、私たちは、主に信頼して、信仰を持って歩んで行くことができるのです。
「長老、祭司長、律法学者たち」(21)は、ユダヤ社会の民の指導者たちを指しています。
「メシア」(20)=救い主=キリスト。本来の意味は、「油を注がれた者」で、イスラエルでは「祭司」や「王」が就任する時に、実際に油を注がれました。新約聖書の時代になると、神様の決定的な救いをもたらす「救い主」を指すようになりました。
「三日目」(22)は、古代では当日から数えるので、現代ではまる2日目になります。
「人の子」(26)は、イエス様がご自身について語る時に用いられる称号です。新約聖書の中では、多くの場合、メシア(救い主=キリスト)を指しています。