・私たちが願うのではなく、主イエスが先に私たちを招かれる。
・一人では耐えきれない重荷を、一緒に背負ってくださる方が居る。主イエスが共に軛を負い、私たちの荷を軽くしてくださる幸いを知らされる。
・写真や絵を用いると「軛」を説明できるし、子どもたちもイメージし易いだろう。
・重荷とは何だろう。生まれ落ちた環境や状況、出会いや関係の破れ。失敗や挫折、負い目や後悔。年を重ねるごとに、より多くのモノを背負いつつ人は歩む。しかし、一人ひとり重荷は違うし、推し量ることのできないものである。それゆえ、重荷を負う子どもたちにとって、主イエスの御言葉は力強く響くことだろう。
・神さまに片棒を担がれる私たちの歩みは軽い。過去を捨て去るのではなく、神さまに助けてもらいながら背負い歩んで行く道があることは幸いである。
・使徒パウロは、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリ10:13)と語る。重荷もまた、神から与えられた賜物として受け取ることが出来るならば、さらに歩みは軽くなることだろう。
『believe』という合唱曲があります。
1番の歌い出しは「たとえば君が傷ついて くじけそうになった時は かならず僕がそばにいて ささえてあげるよ その肩を」。2番は「もしも誰かが君のそばで 泣きだしそうになった時は だまって腕をとりながら いっしょに歩いてくれるよね」という歌詞です。苦しい時や悲しい時、一人だけでは我慢できないかもしれないけれど、誰かが一緒にいてくれるなら元気が湧いてきます。
イエスさまは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われます。昔は、畑を耕すための便利な機械はありませんでした。だから、二頭の牛に土を耕すための道具を引っ張らせていました。「軛」とは、二頭の牛が離れないように繋ぐための木のことです。一頭のだけでは重くても、二頭の力なら引っ張ることができます。つまり、イエスさまは「あなたの苦しいことや悲しいことを、わたしが一緒に背負ってあげるよ」と約束されているのです。
私たちは一年中元気でいることはできません。喧嘩して苦しくなったり、怒られて悲しくなったり、お別れで寂しくなったりします。一人では我慢できないくらい辛くなるときもあるかもしれません。でも、イエスさまは、そのような時に「あなたと一緒にいて支えるよ」と約束してくださいます。とても苦しいときに、イエスさまが支えてくださるなら、これほど心強いことはありません。
同じように、そばにいるお友達も、元気がなくなることがあります。その時には、イエスさまのように、あなたがお友達と一緒にいて支えてあげてください。あなたの優しさが、お友達を元気にするはずです。そして、今度はそのお友達が、誰かに元気をあげられるようになるかもしれません。そのように優しさがどんどん広がっていくことを、神さまはとっても喜ばれます。