・間違っていることを「間違っている」と言うことで、衝突が起こるならば、それは必要なことである。問題に対して一歩を踏み出されたイエスさまの姿を感じ取ってほしい。
・たった一人の渇く者が潤されることは、神の大きな喜びであることを知る。
・「神の御心」と「社会の在り方」の間には深い溝がある。時に、歩みの遅い人が社会から切り捨てられることがある。主イエスは“神の御心を実現するためには分裂が起こる”と言われた。最も歩みの遅い者と歩まれた主イエスの御姿を覚える。
・キリスト教批判に用いられる箇所であるが、決して暴力を正当化する内容ではない。むしろ、主イエスの指し示す先には、神の国における一致がある。
・ユダヤ人社会に物申した主イエスを信じることで、弟子たちと他のユダヤ人たちとの間に分裂が生じた。「剣をもたらす」とは、そのことを指す。しかし、旧約聖書には「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)と記されている。主イエスにとって、剣は人を殺める武器ではない。「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:17)と書いてある通り、人を真に生かすための道具を、主イエスは弟子たちへと与えられるのである。
・「小さな者」を、教会では「弱い立場の人」として、子ども、女性、高齢者、障碍者、病人、失業者などの状況が考えられてきた。また、これらの人々を援助することは教会の務めであり、神の国を受け継ぎ、永遠の命に至る道であるとされてきた。イエスさまは弟子たちを「小さな者」と呼んでいる。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)と言われている通り、私たち自身もイエスさまに助けられる側にいることを覚えたい。
あなたには大好きな人がいますか?お父さんやお母さん、兄弟やお友達。誰の顔が思い浮かぶでしょうか。大切な人がいることは、とても嬉しいことです。
ところで、少し考えてほしいことがあります。もし、あなたの大好きな人が、他のお友達に意地悪をしていたなら、あなたは「駄目だよ」と、しっかりと教えてあげることができるでしょうか?
注意したら、喧嘩になってしまうかもしれませんし、嫌われてしまうかもしれません。大好きな人に嫌われることは、とても苦しいことだから、「駄目だよ」と伝えることはとても勇気がいります。「今度は自分が意地悪をされてしまうかもしれない」と思って、何も言えなくなることもあります。
でも、意地悪をされている人は、とても苦しい思いをしているかもしれません。あなたが黙ってしまったら、助けてくれる人がいなくて独りぼっちになってしまいます。そのとき、あなたは大好きな人に「駄目だよ」と伝えることができますか?
イエスさまは、お弟子さんたちと一緒に旅をしていたときに、たくさんの苦しんでいる人たちと出会いました。皆、自分の前を通り過ぎてしまいます。その人たちは独りぼっちで、助けてくれる人はいませんでした。
けれども、イエスさまはそのように苦しんでいた人たちの前で立ち止まり、その手をとられました。それは、一人ひとりを大切にされる神さまの気持ちを知っていたからです。そして、大変な思いをしていた人を無視して通り過ぎていた者たちに、「神さまは、この人たちを大切にしているのだから、あなたも同じように大切にしなさい」と伝えられたのです。私たちは知っています。「神さまは、意地悪は喜はず、困っている人たちを大切にしてほしいと思っている」ということを。
「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」(マタイ10:39)とは、神さまと一緒に生きることです。意地悪をしている人に「駄目だよ」ということは、とても勇気がいるかもしれません。でも、イエスさまが人を大切にされたように、私たちも大変な思いをしている人を大切にしたいのです。その姿を見て、イエスさまはとても喜んでくださいますし、きっとあなたに勇気をくださいます。