・一人ひとりが主によって必要とされて、今ここに生かされている真実を知らされる。
・教会に集い御言葉を聴いた私たちは、受け取った一つひとつの恵みを、出会う人へと手渡す者として、日常生活の場へと派遣されていることを覚える。
・自分の力不足は全く問題ではない。共におられる主によって常に補われるのだから、何も心配せず、安心して生活していいのだという福音を受け取る。
・主イエスが、何も持たせずに弟子たちを送り出したのは、いかなる歩みにおいても伴われる神によって、常に恵みが備えられることを、彼ら自身が知るためだった。
・神の御心を知らされた時点で、私たちには主イエスと共に働く責任が発生する。
・子どもたちへとお話しされるあなた自身を、主イエスは必要とされている。
・主イエスの時代、聖書の巻物が各会堂に置かれていたが、字を読める者は一握りであった。祭司や律法学者を通してのみ、人々は神の御言葉を受け取ることができた。
・「律法を完全に守る者が救われる」、「犠牲の動物を献げる儀式を行えば人の罪は赦される」など派閥によって語られる内容は異なるが、当時、神の救いは人の行為によって勝ち取るもののように教えられていた。この場合、律法に違反してしまう人、犠牲の動物を買うお金を持っていない者は「救われない」のである。宗教指導者たちが聖書を握り、人々の間から神の福音が取り上げられた状態と言えよう。
・「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(9:36)とは、神の御心を聞き取って語る者、彼らを導く者が居ないことを指す。
・主イエスは旅をされ、多くの人々と出会う中、神から離れて形づくられた社会の現状を見て深く憐れまれる。この「憐れむ(スプラングニゾマイ)」という語は、「はらわたが痛む」ことを意味する。古風な日本語の言い回しでは「断腸の思い」に等しい。主イエスは、人々の置かれた状況を他人事とせず、激しい痛みを覚えられたのである。
・12人の弟子たちを選ばれた主イエスは、彼らを各地に派遣された。弟子は漁師、徴税人、ユダヤ教過激派に属する者など立場は様々だったが、彼らには「神の御業を現す」という役割が与えられた。
・「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(10:8)と言われる通り、弟子たちの力量は問われず、主イエスより与えられた力をもって人々と関わるように言われている。
あるとき、とても困っているおともだちが居たのに、どうしたらいいのか分からなくて、助けてあげることができなかったことがありました。そのおともだちは独りぼっちで泣きながら、家に帰っていきました。
もし、自分が困っているときに、誰も助けてくれなかったら、悲しくて涙が出てくると思います。気づかないふりをすることがとてもひどいことだと、その時気づきました。わたしが悲しい時、おともだちが一緒に居てくれるだけで元気が出てきます。だから、これからは困っている人がいたときに、何もできなくても一緒にいてあげようと決心しました。
イエスさまは、いつも困っている人と出会うために出かけていかれました。悲しい思いをしている人を見ると、イエスさまもとても悲しい気持ちになったからです。だから、寝る暇も惜しんで、イエスさまは旅をされたのです。
でも、たくさんの人を助けても、まだまだ世界には辛い思いをしている人がいっぱいいました。皆、神さまの助けを必要としていましたが、しっかり神さまのことを教えてくれる人がいなかったのです。そこで、イエスさまは12人のお弟子さんたちに困っている人を助けに行くように言われました。12人のお弟子さんたちがいれば、もっとたくさんの人たちを助けられるからです。
旅に出たお弟子さんたちは、“本当に困っている人を助けてあげることができるかな”と不安でしたし、食べ物もお金も着替えも、何も持っていってはいけないと言われていました。でも、神さまの力に支えられながら、無事たくさんの人たちを助けることができたのです。
今日、「あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」(マタイ10:13)という聖書を読みましたが、“あなたがたにはイエスさまの力が預けられているから、心配しなくていい。しっかり助けられるよ”との励ましの御言葉です。お弟子さんたちだけではなく、あなたにもイエスさまは力を下さっているのです。
あなたの周りにも困っていたり、悲しい思いをしている人はたくさんいます。イエスさまは、それを見てとても悲しまれます。だから、“わたしが力をあげるから、助けてあげてほしい”と、あなたを必要とされているのです。
おともだちが困っている時、「助けてあげることができるかなぁ」と不安になることがあります。勇気をふりしぼって近寄っても、悲しい気持ちを全部なくしてあげることは出来ないかもしれません。でも、イエスさまは“いつも一緒にいるよ”と約束してくださるし、力をくださると言われます。あなたがおともだちのところに行くとき、イエスさまがとても喜ばれることを、いつも覚えていたいのです。