・罪がなければ赦される必要はなく、苦痛を知らなければ癒やしも必要ない。神から離れ、傷つき傷つける者たちを招くために主イエスは世に遣わされた。主は御言葉を通して、痛みの多い時代に生きる私たちを癒やしへと招かれていることを覚えたい。
・誰かの前に立ち止まることの大切さを知る。立ち止まる時には一人でも、出会った者の手を取り、二人で歩み出すことができるならば幸いである。
・歴史的な背景を知る。
・収税業務以外では他者から避けられ、立ち止まられることのなかったであろうマタイが、立ち止まられた主イエスの招きをどのように受け取ったのかを考える。
・主イエスの時代、ローマ帝国の監督下に置かれていたユダヤ人たちは、独立した国を持つことを夢見つつ、聖書に記される「約束の王(救い主)」が訪れるのを待ち望んでいた。
・徴税人は、ローマ帝国に納める税金を集める者であり、ユダヤ人の中から選ばれた。「収税権」は高額だったため、買い取った者は損をしないよう税金以上のお金を集めた。「収税権」は財産として、子どもへと引き継げたようであるが、主イエスの招きに従ったマタイは、それを手放したことになる。
・聖書には「同胞には利子を付けて貸してはならない」(申23:20)と書いてあるし、敵対心を燃やすローマ帝国の手先であるため、金持ちであろうとも徴税人は嫌われた。
・食卓と囲むことは、日本で「同じ釜の飯を食う」と言われるのと同様に、親密の証しだった。当時の会食は公開されていたため、周囲の人々は罪人や徴税人と食事をする主イエスを批難し、席に着こうとも納得していない弟子たちは沈黙した。
・「徴税人を弟子とする」とは、今後、他の弟子たちや主イエス御自身も、人々から「徴税人と等しい者」として見られ続けるということである。
昔、わたしのクラスには、皆から無視される一人の女の子がいました。休み時間も、昼ご飯も、着替えも、移動教室があっても、彼女は独りぼっちでした。そんな姿を見て、からかう人もいれば、気づかれないように噂をする子もいましたし、わたしも、関わらないようにしていました。なぜなら、その女の子と話しているのが他の友だちに見つかったなら、わたしも同じように無視されてしまうんじゃないかと思ったからです。
それから1年が経ってクラス替えをした頃、一人の友だちとケンカになってしまい、それが原因で、わたしも周りの友だちから無視されることになってしまいました。誰にも話しかけてもらえないこと、見えないところで悪口を言われているのではないかということが、不安で仕方がありませんでした。こんなに一日が長く感じたことがなかったし、明日も同じようなことをされるかと思ったら、学校にいきたくなくなりました。結局、その無視は、相手が飽きたからか三日間で終わりましたが、前のクラスで最後まで皆から無視され続けた女の子は、どれだけ苦しかったのかに気づかされたのです。
今日の聖書のお話には、「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」(9:9)と書いてあります。皆からお金を集める仕事をしていたマタイさんは、周りの人たちから嫌われ、誰にも話しかけてもらえなかったに違いありません。けれども、イエスさまは、マタイさんの前で立ち止まり、「一緒に旅をしよう」と言われたのです。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…中略…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:12,13)。
一緒に居ることでイエスさまも嫌われることになるとしても、イエスさまは周りの人を怖がるのではなく、マタイさんと旅をすることを選ばれました。それは、マタイさんの悲しみや苦しさを、イエスさまが知っておられたからでしょう。
独りぼっちは、とても苦しい。だからこそ、イエスさまが立ち止まられたこと、そこで話しかけられた一言が、マタイさんを救い、励まし、力づけたに違いありません。マタイさんの前で立ち止まれたように、わたしたちが苦しい時、イエスさまがわたしたちの前で立ち止まり、この手をとって元気づけてくだることを信じます。イエスさま、わたしたちの前に独りぼっちの人がいるなら、その友だちの前で立ち止まることができるように勇気をお与えください。