四旬節第三主日の礼拝になります。ガリラヤから来た人々がピラトに殺害され、その血を生贄の血に混ぜて汚したということ、シロアムの塔が倒れて18人が死んだことなどを、死んだ人自身の罪の故なのだと人々が批判することに、イエスは「違う」と言っておられるのです。神様の前にあっては、人は全て罪人です。なぜなら、神様を忘れて生きているからです。そのような人間に、神様は見捨てることなく寄り添ってくださっています。日課の園丁の姿を通してそのことが言われています。
自分のことを考えてみましょう。他人を批判しながら自分はそうではないと安全な所に身を置いている自分がいます。イエス様は全ての人は同じですと批判判する人々に語っておられるのです。すべての人は罪人、だから全ての人を神様は救いたいのだということを大事にしたいものです。
園丁の丁寧な世話は、一人ひとりに違った世話をしているということを意味しています。「みんな違って、みんな良い」ということを、しっかりと伝えられたら素晴らしいと思います。
ローマ皇帝ティベリウスの下でポンテオ・ピラトは第五代ユダヤ総督とされ、後にイエスに死刑判決をくだします。その時代にピラトがガリラヤ人たちを殺害し、その血が生贄として捧げられた動物の血に混ざったにも関わらず、そのまま捧げてしまったということを意味していると思われます。何故このことが問題とされたのかということですが、血が混ざったままということでガリラヤ人を動物と同じに扱ったということを問題にしたということではないかということでしょう。
ブドウ園の主人なのに対象がイチジクの木になっています。ブドウ園はイスラエルを示しています。イチジクも身近な植物です。アダムとイブが罪を犯して恥ずかしくなり、身を隠したのが「イチジクの葉」だった(創世記3:7)ということからも理解できます。そういえば、ザアカイがイエスを見るために上っていた木は「いちじく桑」でした。普通のイチジクと理解して良いだろうと思います。イチジクは身近で重要な木です。個々の存在について語るために、敢えてブドウ園のイチジクを対象にしたのではないかと思います。その辺りの事情は、想像を膨らませられる要素かもしれません。
イスラエルの律法では、全ての実のなる木は、実が成り始めてから3年間は収穫してはならないとなっています。4年目は神様に捧げ、5年目になってやっと食したり商品にしたりできたのです。(レビ19:23~25)3年も実が成らなかったというのは、もし来年実がなったとしても、商品になったり食用になるのは5年先という意味がありますので、持ち主が短気な性格だったというには当たりません。