無から新しい命を創り出される神の業だからである復活について、どうやってそれが起こったのか説明することはできない。復活はむしろ、わたしたちの視線を、まだ見え無いけれどもいつの日か完成する神の国へ、つまり未来へと向けさせる。
見えないところに新しい命が生まれてくる、身近な例を挙げてみる(土の中の球根、卵の殻の中のヒヨコなど)。そして、そのような新しい命に触れる時、わたしたちの心は元気づけられ、失われてしまった過去よりも、まだ見ぬ未来に向かうことができる。主イエスの復活の命の物語に触れる時にも、わたしたちは未来へと向かう力を与えられる。
イースターのシンボルとして、「卵を運んでくるウサギ」がよく知られているが、聖書とは直接の関連は無い。ドイツの科学者ゲオルグ・フランク・フォン・フレンケナウが1682年の著作の中で、ドイツのプロテスタントの地域におけるこの民間伝承について初めて触れている。ヨーロッパ文化の中で、ウサギはその繁殖力の強さから豊穣の象徴として捉えられていたものが、命溢れる春の季節の祝祭であるイースターと結びついたものと思われる。
みなさん、イースターおめでとうございます。イースターは、イエス様が甦られたことをお祝いする日です。今日の聖書のお話しでは、イエス様のお墓が空っぽだったことが書かれています。なぜ空っぽだったことをお祝いするのでしょう?
聖書には、金曜日の午後、十字架で死んだイエス様を、夜になる前に大急ぎでお墓に納めてたと、書かれています。お墓は横に穴を掘ったもので、中にイエス様のなきがらを納めた後、大きな石でふたをしてありました。
安息日が終わって夜が明けた日曜日の朝早く、イエス様の弟子の女の人二人がイエス様の体をきれいにしようと思ってお墓に向かいました。お墓に向かいながら二人はきっと、イエス様が亡くなってしまって、もう会えなくなってしまったことを悲しんでばかりいたことでしょう。
ところが、お墓についた二人はとても驚きました。大きな石が転がされて、お墓の中にはイエス様はいなかったからです。お墓の中にはただ、白い服を着た見たこともない人がいて、こう言うのでした。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」一体イエス様はどこへ行ってしまったのでしょう?
イエス様は神さまから新しい命を与えられて、甦られたのでした。だから空っぽのお墓は、何にも無い、がっかりするようなことではありませんでした。それは、そこから新しい命が始まったことを示すものでした。
わたしたちは、大事なものを失ったり、深く傷ついたり、とても悲しいことがあったりする時、自分が空っぽになってしまったと思うことがあります。でも、神さまはその空っぽのわたしたちの中に新しい命を与えてくださるのです。だから、イエス様の復活をお祝いするイースターは、わたしたち一人一人にも神さまが新しい命を与えてくださることを喜び、その喜びをみんなで感謝して伝え合う時でもあります。みんなで、イエス様の復活の喜びを、そしてわたしたちに新しい命が与えられたことをお祝いしましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□113番 「くさのめきのめが」
□改訂版91番 「主の復活、ハレルヤ」
ロールプレイングゲームなどの「復活の呪文」は元通りになるものだが、そういう「復活」と、「新しい命」との違いは何かを話し合ってみる。
1)たまごさがしをする。
2)キャンディ探しをする。→卵の代わりにイースターカードとキャンディなど小さなお菓子をいれた袋を探す。
3)イースターカードを自分で描き、好きな人にあげる。