神さまが支払う代価の大きさを知らせることを通して、神さまがわたしたちをどれだけ大事に思ってくれているかを理解させる
「自分の命をささげる」という神様のわざは子どもには分かりにくいので、うまく伝えるために表現を工夫したい。マルコ10章45節のみことばは、イエスさまが弟子のヤコブとヨハネ(二人は兄弟)から「(イエスさまが)栄光を受けるとき、わたしたちをあなたの右側と左側とに座らせてください」と頼まれたときの話しの流れから出たものである。これは、やがてイエスさまが勝利を得、王座に着いたときに、自分たちを右大臣と左大臣(つまり側近中の側近!)にしてくださいと頼んでいることを意味する。他の弟子たちを出し抜いて、自分たちを一番のイエスさまのお気に入りとして選んでほしいというのである。そのヤコブとヨハネに対してイエスさまは「それはわたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と、あくまで決めるのは神様であると二人を突っぱねる。そして、もし一番上になりたいのなら、みんなに仕えるしもべになりなさいと諭す。なぜならイエスさまご自身も仕えられるためでなく仕えるために、言い換えるならば、一番上になるためではなく一番下になるためにおいでになったからだ。
これがこのテキストの要点であるが、幼稚園の子どもたちには、これをそのまま伝えても話を把握するのはなかなか難しい。「みんなに威張ってはいけません。みんなにやさしくしなさい」と言ってもできないのが子どもなので、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」という一文をなんとかうまく説明して、「ねらい」が心にストンと落ちるようにしたい。ぬいぐるみを使用したり、紙芝居でお話しするのもよいだろう。iPadで羊やオオカミの写真を見せるのも一つの手だ。
イエスさまが十字架にかけられて「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ことは、旧約聖書イザヤ書53章10~12節に約束されていたことであった。「彼は自らを償いの献げ物とした」(10節)。「彼は自らをなげうち、死んで...」(12節)。また、「身代金」は元々、戦争で敵軍に捕らえられた捕虜や奴隷を釈放させるために支払われた金のこと。イエスさまは自ら犠牲の献げ物となって十字架にかかり、死ぬことによって(身代金を支払ってくださって)、罪の奴隷状態にあったわたしたちを解放された。