今日の日課は、非常に素晴らしい箇所の一つですが、しかし「掟」となると、これを守ることによって何らかの見返りが与えられる、あるいは、何らかの希望を叶えるために「掟」を守る、といった発想に成り易くなるように思われます。そこで、「掟」を理解するときにも、「恵みの先行」ということを強く意識し、その恵みに対しての応答として招かれている、という理解へ導かれる必要があるように思います。
特に幼い子どもたちに語る場合、事柄の説明だけでは届きません。これが「掟」である以上、神さまがこの事柄を明確に望んでいる訳ですから、その神さまの望みは何かをしっかり抽出し、子どもたちの日常、経験(僅かであっても)、感性に共感するような語り口が望まれます。もちろん、簡単なことではありませんが…。みなさんが接しておられる子どもたちの姿から、具体的な事柄を拾い出されてはどうでしょうか(喜びも悲しみも)。
ここに「心を尽くし」という言葉があります。一般に日本人の心の理解は「情(感覚)」的な面が強いように思われます。しかし、ユダヤ人にとっての「心」とは「情緒ではなく理解力」(『旧約聖書のこころ』雨宮慧著 女子パウロ会)だと言われます。また「愛」についても同様です。日本人にとって「愛」と「好き」とではさほど区別なく用いられることが多いように思いますが、欧米では「愛」は「意志」と考えられ、聖書的理解(ヘブライ語のヘセド)も「人と人とを結ぶ絆」であり、「その愛にとどまり続ける責任」をも意味すると言われます。このように、「心」も「愛」も情だけで揺れ動くようなものではないことを伝えることも(もちろん、小さな子どもたちには難しいことでしょうが)、彼らが成長するに際して役立つ(信仰の事柄ばかりでなく人間関係においても)のではないでしょうか。