・誰が誰にたとえられているかをしっかりと踏まえ、かつ、自分たちの物語として受け止める。
・イエスの死と復活という人間の思いを超えた神さまの業が人の救いとなり、新しいイスラエルの土台なる。
・このたとえ話は、当時の人々にすれば誰でもが理解できた話であった。すなわちブドウ園の主人が神であり、ブドウ園がイスラエル、農夫はイスラエルの指導者、主人が遣わした僕は預言者を指しているということである。そして自らを「神の子」というイエスが主人の息子のことを言っているのもまた明らかなことであったのであろう(この時点ではイエスは殺されていないが、殺意はすでに律法学者や祭司長たちの心の中にはあった)。
・だからこそ「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」という問いは、祭司長や長老が自分のことを指していわれていることを理解していても、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」と自らの罪を認めざるを得ないような答えを自らの口で語るのである。
・「ブドウ園の外に」:39 → マルコによる福音書では、殺してから遺体を外に放り出すが、マタイは逆。畑が血で汚れることを嫌ったマタイのユダヤ教的センスのゆえ。
・「民族」:43 → 神の国が「ユダヤ民族」から離れ、キリスト教徒という別の民族に移るということを言っている。