TNG The Next Generation

2014年9月21日 聖霊降臨後第15主日

福音書 マタイ18:1-14
第一の日課 エレミヤ15:15-21
第二の日課 ローマ12:9-18

今週の聖句

「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」
マタイによる福音書18章5節

ねらい

・イエスさまが話す、受け入れるようにと求めた「幼な子」「小さき者」とは、一般的・社会的な弱者ではない。「迷える羊」の例でもあるようにこれまで聖書の中で示されてきた存在について考えてみたい。

説教作成のヒント

・「わたしの名のために」というのは、「イエスさまのゆえに」、受け入れるのであり、いわば、自然な情で受け入れるのではなく、理性的であり、信仰の行いの原点

・出発点を私たちに確認させるのである。

豆知識

・人間はどうしても、自分の「位」、自分の地位を求め、確認しようとする。「偉くなりたいと思う者は、・・・」(マタイ20:26)どうしたらいいのか考えてみよう。

説教

イエスさまの弟子たちは、旅の途中で「途中でだれがいちばん偉いか」と議論し合っていました。「偉い」とかいう言葉は、皆さんも友達とのやり取りで話をし、使うでしょう。そんな自分の地位や評価についての言い争いに、気を取られて、自分が上にのし上がっていくことが、弟子たちにとっても、大きな関心ごとでした。そんな弟子たちの心の向きを思いながら、イエスさまはひとりの子どもを抱き上げたのでした。なぜ、「子ども」のことを例えて言うのでしょうか。

今も中東やアフリカの国では、戦争があり、お父さんや小さな少年までも、戦場に駆り出されています。戦争が起こった結果は、戦争をした国々にとって喜びや心の安らぎはありません。家族を失った人々が増え、怒りや憎しみがたくわえられます。テレビで、戦争から逃れてきた人々が、食料や薬、ゆっくりと眠る場所を求めている難民キャンプを見たことがありませんか。そして、その真っ先に犠牲になるのは、子どもや女性です。

ここでイエスさまが抱き上げられた子どもは、“飢餓・戦争・病気・社会混乱”の最中に置かれていた一人です。子どもとは、この世の悲惨な状況の被害を最も顕著に受ける存在ではないでしょうか。そんな子どもを、ここでイエスさまは抱き上げられ、「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる」ことを求められたのです。

誰が最も大きいのか、誰が一番かと、仲間内でそんなことにだけ心を傾け、自分たちのエネルギーを割き・注いで、周囲の現実を見ようともしていない弟子たちでした。そんな弟子たちへの実に厳しい批判が、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」との、語りかけから響いてくるように感じます。

「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」とあります。イエスさまは、ただ手を置かれたのではありません。抱き上げて祝福されたのです。子供たちは、イエスさまのもとに連れてこられました。そして、されるがままに、イエスさまの手に抱き上げられたのです。そこにイエスさまの祝福が与えられたのです。私たちが全く無力な所において、イエスさまは救いの御業を行って下さっているのです。イエスさまが世に来て下さり、十字架に架かられたというのは、イエスさまが私たちが何も出来ない所で、私たちの罪を引き受けてくださり、私たちに代わって死んで、救いを成し遂げてくださったことを意味しています。私たちは自らの罪に対しては力を持たない者です。私たちが、自分が持っている力や、財産、人に誇ることが出来る歩みを主張するところではなく、子どものように、何も出来ずただ、与えられるものを受け入れることしか出来ない所に、罪の赦しというイエスさまの救いがもたらされるのです。「子どものように神の国を受け入れるとは」、神の助けなしには、イエスさまの愛なくしては、自らの罪を前にして、自分自身で自分を救う手立てをまったくもたない、無力で弱い存在として、神の前に自らを差し出す者となるということにほかなりません。そのような者のためにこそ、イエスさまの十字架があるのです。

私たちは自分の持っているものによって救いを得ようとしている時、イエスさまのもとにやって来ても、そこを立ち去ってしまいます。イエスさまの側にいることで、自らを誇ろうとする時、イエスさまのもとに連れてこられる者の妨げとなってしまうことがあります。自分を頼って、神さまの豊かな救いを価値あるものとしないでいるのです。ただ、連れてこられる一人の子どものように、自らの罪に満ちた歩みの前で何も出来ずに、この方に委ねる時、祝福と共に、十字架で死んで下さったイエス

・キリストの救いが与えられるのです。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□58番 「かみよこのいのり」

□改訂17番 「てをあわせ」

やってみよう

1.こどもの数だけ椅子を並べる。

2.小学生の場合椅子に1点~から順に点数を書いて置く

3.幼児の場合、王様、お姫様、家来、料理人、子供、などの絵を描いて椅子の背中に貼って置く。

4.教師は楽器を弾くか、タンバリンや太鼓を叩いてこどもは椅子の廻りを歩く。

5.音が止まったらこどもは急いで好きな椅子に座る。

6.何度か繰り返して遊ぶ。小学生の場合は自分が座った椅子の点数を足していっても良い。

7.何度か遊んだ後で、点数の一番多かった人。王様に何度なった?お姫様に何度なった?と聞いてみる。

点数が一番多かった人が一番偉いと思う人?

王様になった人が偉いと思う人?などみんなで話してみる。

お弟子さんが「天国で一番偉いのは誰ですか」と聞いた時、イエスさまはなんとお答えになったでしょう。

イエスさまは「こどものようになる人が天国では一番偉い」といわれました。

話してみよう

・「一人が欠けてはならない」「一人を受け入れること」を体験してみよう。

その体験を通して、神さまが望んでいることであり、喜ばせる理解を、子どもたちと共有してみよう。

例:1)円になってから、ゆっくりと、膝をかがめて後ろの人の膝に座る

2)円になって相手の背中を支え合ってみよう。

信頼していないとできないのであり、心を打ち解け合わせるアイスブレイクでもある。

教師らは創造的に行う事をしてもよいだろう。

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