「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊に実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ15:1,2)
今週のテキストは、ヨハネ福音書15章にある『イエスはまことのぶどうの木』の話の流れので、語られている個所。万物は有機的な「つながり」の中にある。――が、私たちはこの「つながり」自体に対して、自覚的に生きてはいない。――それは大陸の中の、「陸の孤島状態」にある。実際は、あり得ないことが起こっているのだ。この「孤立状態」こそ、「内的病発生」の始まり‥‥苦しみの始まり。
(宇宙と地球、森と動物たち、海と魚たちのように、具体的なつながりを、子供たちと話し合おう。)
イエスはこの「孤立状態」にあるすべての人に、『有機的なつながり』が既に存在していることに、気づかせているのだ。孤立状態とは、「自己中心的な考えに縛られて、身動きが取れない状態」を意味する。「孤立状態からの解放」は、一重に『有機的なつながり』を思い出し、そのつながりに「ゆだねる」以外にはない。ゆだねた瞬間、「内的平和」が訪れる。放蕩息子を父親が待ち続けるように、神は今ここにて、待ち続けていたのだ。いつでもどこでも、神は今ここにいて、帰還を待ち続けておられる。
(子供たちと、どういうときに寂しいか、不安か、その孤立感を共に感じ合ってみよう。)
この「ゆだね」「信頼」によって、「孤立状態」は終わり「内的平和」が訪れる。その瞬間、「生命エネルギーが、つながりの源からみなぎって来る」。そして、この生命エネルギーによって、「豊に実を結ぶように、神は手入れをなさる」のである。もともと、「神と人間のつながり」は、そのように成立していたのだ。――が、いつの間にか、私たちは忘れていた。イエスは、忘れている私たちの眼を覚ますために、この世に来られた。そして、愛は、「神と人間のつながりの源泉」である。愛は‥‥源泉だ。
(生命エネルギーは、ハートを思い切り開くときに感じるもの。その体験を共にしてみよう。例えば、共に讃美歌をうたう。共に握手する。ともかく、心を開くことは何でも、心身ともに動くことが大切。)
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9) イエスが自分のことを「わたし」と第一人称で呼んでいても、それは私的な「私」ではない。その「わたし」とは、私的な「私」が消えた「わたし」、「神とひとつのわたし」「無自我のわたし」であることに注意。この「わたし」は、「万人と共にいるわたし」「インマヌエルのわたし」である。愛は「すべてを包む」からである。愛とは、「つながりの源」からやって来る『神の働き』のことである。ゆえに、つながりの源からやって来ている、「わたしの愛にとどまりなさい」と、イエスは言っているのだ。
(愛は、頭で考えるものではなく、ハートで感じるもの。子供たちと感受性の次元を体験してみよう。)
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(同11,12節)これが今週のテキストの結論。「喜び」と「笑い」と「涙」は、ハートからやって来る。「明晰さ」もハートからやって来る。「神とのつながり」(「まことのぶどうの木」)からやって来るもの。その源は「神の愛」である。「混乱」は常に、頭(マインド)からやって来るもの。自我からやって来るものだ。「神とのつながり」に目覚め、そのつながりに『ゆだねる』とき、奇跡が起こる。生まれ変わりが起こる。
(子供たちと手をつなぎ合って、ひとつの輪になろう。そして、共に「神とひとつ」を感じ合おう。)