イエスがメシアなのかどうかを巡っての、イエスとユダヤ人とのやりとりが、このテキストの内容。場所は神殿の境内、ソロモンの回廊。イエスはユダヤ人たちに取り囲まれている。主としてイエスに敵対的な姿勢を見せている、祭司や律法学者などの神殿勢力のことを、ヨハネは一括してユダヤ人と呼んでいる。彼らは言う(⇒10章24節)。
彼らは今不安なのだ。九割方は、この男がメシアであるはずもない。けれど、一割方は、もしかしたら、そうかも知れないという、可能性も否定でないでいる。彼らのかちかち頭には、勘に障ることばかりだが、名状し難い魅力、またガリラヤやユダヤ近郊で行なってきたいくつもの奇跡、それらはイエスがただ者ではないことを物語っている。けれど彼がメシアであったら、神殿勢力にとっては困ったことになる。自分たちの既得権や、特権意識や、忠誠心が根本から揺るがされることになる。だから「そんなはずはない」と思うのが九割。でも「もしかしたら」と思うのが一割。
「はっきりそう言いなさい」と言うのは、そう言えば認めると言うことではなく、そう言えば「神を冒涜した」という言質を取ることが出来るからだ。自分から「わたしはメシアだ」と言わせ、それを神への冒涜として断罪することで、自分たちの不安を払拭しようとしている。
ここには出ていないが、福音書は、イエスに対する敵対意識の裏に、ユダヤ人指導者たちの「妬み」があったことを指摘している。マタイでは、それを見抜いていたのがピラトであったことも述べている。ピラトが、強盗の罪で捕らえられていたバラバとイエスのどちらを釈放して欲しいかと問い返したとき、彼らは「バラバを」と答えた。マタイは、彼が問い返したのは「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」と記している。イエスを十字架に追いやった重要な動機の一つが、「妬み」であったことは確かである。
主イエスもまた、プライドの高い男たちの嫉妬によって、十字架に追いやられたという一面が色濃くある。それだけ嫉妬というのは罪深く、目を曇らせ、耳をふさぎ、心を歪めるということ。嫉妬心は女にもあるものだ。主エスは答えられる(⇒26節)。
「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないから」。
聞きようによっては、何と冷たい言葉だろうか。信じないあなたたちは、メシアのものではない、キリストのものではない、救い主のものではない、と言われているのだ。そしてこう言われる(⇒27節)。
わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
キリストに信じる者は、キリストの声を聞いた者。その声が、どんな声だったか、年月が経って、もうはっきりと思い起こすことは出来ないかも知れない。と同時に、わたしたちは毎週、このようにしてキリストの言葉、その声を魂に聞いている。それは、あなたがたが「わたしの羊」だからと言ってくださっているのだ。
なぜ、あの人、この人ではなく、わたしなのか。理由は分からない。神に信じ、キリストに信じ、キリストが死人の中から復活なさったことに信じる。なぜそうなったのか、理由は分からない。
それに信じなくても、不自由なく生きている人は数多いる。それに信じなくても、堅実な社会人として、世のため人のために生きている人は数多いる。それに信じなくても、ちゃんと、立派な死を死んでいる人は数多いる。そうい、、、、、う人たちに比べて、わたしたちが特別際立っているものはないのだ。この世では。そう、この世では。
けれども、私たちはキリストなしには生きられない。主なるイエスはわが宝なり。なぜそうなのか。それは選びによるもの。きっと深い考えがあって、わたしたちは選ばれたのだ。私がキリストを選んだのではなく、キリストが私を選ばれたのだ。私たちがキリストのことを知っているよりも、はるかに深く、はるかに徹底して、その愛も、その罪も、キリストはご存じなのだ。その上での選び。貴方はわたしの羊。その断言。それが選びなり。
選びは約束である。その約束はこうである(28-30節)。
父のものであり、父がキリストに与えられたもの、それはキリストの無限愛。永遠の命を与える愛。それはすべてのものより偉大である。すべてのものとは、人間を滅ぼす悪しき力のすべてのこと。
何はともあれ、いったい誰が、キリストが死者の中から復活し、再びこの世に姿を顕してくださったことに信じることが出来るだろうか。けれども、信じる者たちがいる。信じるように心を開かれた者たちがいる。選びによってキリストの羊とされた者たちである。私たちはその一人、ひとりとしてここに居るのだ。
なぜ私たちなのか、それは分からない。ただ、私に対する特別の憐れみによって、特別の恩寵・恵みによってである。今週もまたキリストの声を聞きつつ生きてゆこう。雑音を沈め、キリストの声を聞きつつ、永遠の命の中を生きてゆこう。