弟子たちにとっても、主の御復活に信じるようになることは、そう簡単なことではなかったようだ。確かにそうだろう。死人が復活するなど、いくら2000年前の古代のことだとしても、前代未聞のことだからだ。
ただ弟子たちはそれでも、主イエスと行動をしているときに、特別の体験を与えられていた。あのラザロの復活、或いはヤイロの娘の復活である。それなのにイエスの復活には半信半疑です。一般に、落ち目になったり、追い詰められたりしている集団は、心も閉ざし合い、疑心暗鬼になるものだ。悲劇は、それを一緒に経験した者を、強い絆で結ぶのではなく、相互不信と、非難、中傷の中で分裂させる方向に働く。そうして人々は深い傷を負って散り散りになる。
教会も、しばしばそういう経験をすることがあろう。順風満帆の時は、皆仲良く、逆風の時は、分裂する。人間の常である。弟子たちも、一緒にはいても、互いに疑心暗鬼であった。主イエスがあのような死に方をされて、求心力がなくなった。がたがたである。だれが第2のユダになるかわからない。その手引きで、いつユダヤ当局や、ローマの兵士が、踏み込んで来るかも知れない。それでも彼らは集まっている。集まってはいるが、みんな孤独。集まっているからこそ孤独。そんな中である。復活の主がご自身を顕してくださったのは(⇒24章36節)。
求心力を失った彼らの、真ん中に主イエスは立ってくださった。もう一度真ん中に立ってくださったのだ。これこそ、教会の原型なり。教会とは何か。問題多い弟子たちの真ん中に、復活の主が立ってくださっている群れであるにほかならない。
けれど弟子たちはまだ、半信半疑である。イエスは真中に立ってくださっているのに、彼らは恐れに留まっている。これもまた教会の現実の一面でもあろう。本当はもう恐れるものは何もない。でも、弟子たちは自分の恐れを投影して、復活の主を、こともあろうに幽霊だと見誤ってしまう(⇒37節)。心の目は、自分の心が暗ければ暗い世界を、恐れがあれば恐ろしい世界を見るもの。弟子たちの目はイエスを亡霊だと見てしまった。
弟子たちが、エルサレムに来て以来失っていたものは平安である。平和な心である。だからこそ主はまず弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われます。もう大丈夫。わたしはここにいる。平和であれと。そして主は言われる(⇒38-42節)。
そのときの光景が、ありありと目に浮かぶ。一匹の焼き魚をさも美味しそうに手にとって食べられる主イエス。弟子たちがあっけにとられてポカンとしている中を、むしゃむしゃ魚を食べておられる主イエス。弟子たちも、ガリラヤ湖畔での、楽しかった食事のひとときを想起する。この光景を椎名麟三が、神のユーモアと表現したことは有名だ。まさにそうであるかも知れない。永遠なお方が、時間の中で、一匹の魚を美味しそうに食べられているという矛盾。ユーモアというのは幸福な矛盾である。弟子たちの心には喜びが溢れて来る。それにしてもなぜ、イエスはこのように、手や足、肉や骨、など、体を強調なさったのだろうか。いずれ、その姿も消えて、この世ではもう見られなくなるのに。
使徒言行録では、サウロ、後のパウロの、復活の主との出合いを伝えている。彼の場合は、主のお姿を見ることはなく、声に聞いただけ。けれどもパウロは、体の甦りについて、霊のからだについて熱く語る(⇒Ⅰコリ15章42-45)。福音書記者たちもパウロも、復活をただの霊魂不滅とは違うと考えている。霊魂不滅というのは、体は死んでも、魂は不滅と考えるもの。古代のギリシャ哲学者のプラトンなどもそう考えていた。それに似たものが、輪廻転生の考えです。霊魂は、涅槃に行くまでは、色んな生き物に姿を変えて、転生して行くという考え。ヒンズー教や仏教がその考え方をする。
復活の使信は、それとは違う。死ぬのは、肉体だけではなく、魂も死ぬのだ。キリストは陰府に降られた。陰府に降られたと言うことは、魂の死も経験されたということ。肉体は死によって土に帰るが、魂は死んでも帰るところがないのだ。土に帰ることも、無に帰ることも出来ず、神から離れた、虚無の世界を彷徨うばかり。復活というのは、まさにその魂の死からも復活し、永遠の霊の体をいただくことなり。キリストが死者の中から復活されたと言うのは、そのことなのだ。
キリストの命にあずかる者は、肉体の死と同時に襲ってくる魂の死を一挙に超え出て、復活にあずかる。すべてを失った弟子たちが、蘇られたキリストにお会いして、失ったものが何一つなかったことを知らされたように、私たちも、死によって失うものは何一つない。すべては元どおり、いや、それ以上なのだ。
むろん失うべきもの、失ってよいものは失う。魂の迷いはなくなる。虚栄や、強欲や、傲慢や、憎しみや、絶望や、苛立ちや……それら、魂を汚すものはすべて消えてなくなる。けれど、共に食卓に着くときの喜びや、神と共にある楽しみ、讃美の喜び、美しいものへの感動、真理の楽しみ、愛と平安の充足、それらのものは、この世で経験するものの幾百倍も与えられるのだ。愛する者との再会も、どんなに心満たされることだろう。弟子たちが、主を見て喜んだように、私たちも、愛する者と会って喜び、何にも失っていなかった、全てはもとどおり、いやそれ以上であることを味わわせていただくだろう。