・イエス様以外の絶対はないということを知る。
・温故知新について調べてみる。
・イエス様の教えが新しい布、新しいぶどう酒であることを踏まえて日課をはじめから読む。
・ユダヤ教においての断食…公のもの、個人的なもの、規定されていたもの等々(ゼカリヤ7:3以下、8:19)。
・新約聖書の断食…使徒言行録13:2以下、14:23。
・当時のぶどう酒の革袋は羊や山羊の皮を使用したそうである。
みなさんは「断食」というものを知っていますか?
そうですね、自分の意思で食べることを我慢することです。病気でご飯が食べられなかったり、食べるものがなくて食べることを我慢することとは違いますよ。では断食をしたことのあるお友達はいますか?
そうですね、子どもが断食をするというのは聞いたことがありませんし、今では断食をする人自体、とっても少ないと思います。でもイエス様の時代はそうではありませんでした。神さまにごめんなさいという気持ちでする「贖罪の日の断食」というものがあったり、何か悲しいことがあってみんなでする「民族の不幸の記念の断食」というものがあったり、願いが適うまで続ける「断食」であったり、誰かが死んだことを悲しむために行う「断食」であったり、たくさんの「断食」がありました。そして断食のだいたいどれもが「かなしい」とか「ごめんなさい」「つらい」といったような思いをあらわすものでした。
ですから、まじめに生きている人なら「ごめんなさい」や「つらい」といった思いをこめてする断食は日常的に行われるものであり、むしろ断食をしないのは、自分がよっぽど完璧だとおもっている人か、神さまをまったく信じていない人たちであると思われていたのです。だから、今日読んだ聖書にあったように「ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、何故イエス様の弟子たちは断食をしないのか」イエス様にたずねたのです。するとイエス様は、ご自分のことを花婿にたとえられ「結婚式で花婿と一緒に座っている、そんなお祝いの席で断食するような人はいないでしょ、それこそお祝いするために集まっている人たちに失礼でしょう、婚礼の席に花婿と一緒に座っているんなら、一緒に食べて祝わなければ」とおっしゃったのです。
そして続けて「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を破り、ぶどう酒も皮袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものだ。」い言われました。
これは、まだ日光や雨風に触れていない新しい布は、それらに触れることによって繊維が収縮するため、継ぎあての役割を十分に果たすことができないことや、新しいぶどう酒は醗酵のスピードが速いために古い皮袋を使った場合、古い皮袋がすぐに破れてしまうという、違う性質を持つもの同士を合わせてはいけないという、当時の人たちの常識でした。イエス様はここで、旧約聖書の決まりである「断食」を新約聖書の決まり(イエス様の教え)とあわせてはいけない、私の教えは新しい教えなのだ、新しい教えを古い教えで包み込もうとしてはならない。ということをおっしゃっているのです。古い教えも新しい教えも大切にしていきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□9番 「めぐみうけて」
□改訂版99番 「古いものはみな」
・伝統って大切?
・みんなは「かなしい」とか「ごめんなさい」「つらい」という気持ちを表すときどうする?みんなのまわりではどうしてる?