・愛の本質をみいだす。
・15章~16章では13章~14章と同じ様なテーマが繰り返されているので、13章34~35で語られている箇所と重ねて読むことによって、より深められる。
・「愛」という表現がヒューマニズムの標語として歴史に一人歩きしている。しかし、イエスが語るのは、父・子・弟子たちとの一体性の核としてのことである。
・愛は対等な関係に於いて成立する。
・イエスの愛にとどまり、愛の掟を守ることによって、イエスの「友」と呼ばれる。
・自分ためにではなく友のために命を捨てることは、間接的に十字架の死を示している。
今日の聖書ではイエス様が「愛」について話されています。イエス様は「私につながることで、私の愛に留まることになります。私の愛に留まるなら、豊かな実り(ぶどうのように)「愛」を実らせることになります。」と教えてくださっています。
皆さんは「愛すること」はどんなことだと考えますか?(○○さん、○○君、どんなことかな?と言うように一人一人に問いかける)色々なことを考えると思います。イエス様は「互いに愛し合いなさい」(12節)「これがわたしの掟である」(17節)と言われましたが、愛は命令されてするのはおかしいと疑問に思った人もいるでしょう。愛というのは心の中から自然と沸きあがるもので、命令されて義務的に愛すると言うのは本当の愛ではない、と言うこともできます。そんなことを考える時「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が大切になります。
イエス様は、御自身が弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じられるのです。弟子たちにすれば「イエス様がわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになります。これが、弟子たちが愛することの根拠と考えるもとになります。これは義務や命令ではなく、恵みの世界です。「掟」や「命令」と言っても実は規則のようなものではなく、私たちの心に働きかけて、私たちの生き方を新たにしてくださる神様の導きです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。皆さんは「友」はどのような存在だと考えますか?自分に好くしてくれる人が「友」で、自分に厳しくする人は違うと考えたりすることはありませんか?イエス様は、自分に都合のよいことをしてくれる人だけを友と呼びなさいといっているでしょうか。そうではないですね。イエス様が「友」と言われる時、一人ひとりが心の繋がりを持っていることをいわれているのです。
イエス様が「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。その理由は、父なる神様から聞いたことをすべて知らせたからだと言うのです。つまり、イエス様と弟子たちの間に心の繋がりができたからだといえます。
私たちが何かを選ぼうとする時、一番よいものを選ぼうとします。でも神様は私たちから見て一番弱く、貧しい人を選ばれます。それはすべての人を救うためです。人間が優れているから神様に選ばれ、救われるのではなく、神様はすべての人を救おうとされています。「ある人」を選んで、その人を通して他の人に救いを齎そうとされるのです。だから、「選ばれてラッキー!」と言うことで終わるのではなく、救いを受けた人は他の人を救うために働く神様からの使命が与えられます。その使命を果たすためにも、互いに、他の人をも愛しなさいと言われるのです。好き・嫌いで愛するのではなく、神様の前に等しい人として愛し合いましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□31番 「キリストイエスは」
□改訂版128番 「飢えている人と」
①画用紙を半分におる。
②折ったところに2箇所切り込みをいれる。
③切込みを入れたところを、内側におる。
④折った部分にお母さんの顔を貼る。
日頃、お母さんに感謝の気持ちをカードに託しましょう。
・あなたにとって「愛情」って何ですか?
・あなたにとって「友だち」って何?どんな存在?何をもって「友だち」と言う?
・友だちではなくなる時ってどんな時?
・友情と愛情の違いって何?